「プロ棋士は、常にどんな戦法でも指せるように、自分を鍛えておかなければなりません」。大山康晴十五世名人に帰される言葉です。得意な戦法を磨くことと、未知の戦法に対応することを両立させる教えとして読めます。しかし、この日本語の定型句を本人が語った著書・インタビューの初出は未特定です。関連する流通文と、将棋連盟が公開する実際の戦法の説明を区別し、専門家の準備について考えます。

言葉の出典と、その周辺の流通文脈
対象文は大山康晴名義の名言一覧、将棋ファンの語録紹介に掲載されています。また2018年の別の語録記事では、棋士はどの戦法でも指せるように鍛え、芸域を広げて未知の世界を開拓すべきだという長い流通文が紹介されています。今回の一文は、その中の一部としても読めます。
ただし、これらは二次的なウェブ資料です。大山本人の著書のページや録音など、同じ文言を一次資料で最終確認できる証拠は見つかっていません。流通文が同じだからといって、発言日時・逐語性・語られた具体的な対局を推測で補うことはしません。
将棋の戦法は、なぜ一つでは足りないのか
将棋では、初手からどのような陣形を組むか、どの筋から攻めるか、相手が何を目指しているかによって、研究すべき手順が変わります。矢倉、角換わり、相掛かり、振り飛車など、戦法の選択肢も多様です。日本将棋連盟公式オンラインストアの『全戦法対応 将棋・基本定跡ガイド』は、さまざまな序盤戦法を対象に解説する書籍の紹介です。
ただし、書籍に多様な戦法が載っていることは「トップ棋士はすべての戦法を同じ水準で扱える」という証明ではありません。実際の棋士には得意な戦法や棋風があり、局面に合わせた研究の深さも異なります。
得意な戦法を持つことは悪いのか
むしろ自分の武器を持つことは、競争で重要な場合があります。2023年の王位戦中継ブログに掲載された棋士の会見では、得意戦法である相掛かりを三段リーグのころから選び、自分の武器としてきた経験が語られています。これは大山本人の発言ではありませんが、現代の棋士にも得意な戦法が存在することの具体例です。
したがって「どんな戦法でも指せる」を、得意分野を消し去る義務と読む必要はありません。得意分野に力を注ぎながら、相手の選択で別の局面になったときに対応できるよう備える。強みの深さと、選択肢の幅は、競合せず補い合うものです。
新しい戦法の勉強はいつ終わるのか
戦法や定跡は、時代や新しい研究によって変化します。『将棋・序盤完全ガイド 相居飛車編』の増補改訂版の書籍紹介は、数年の間に戦法の評価や流行が大きく変化したと説明しています。ある時点で十分に通用した作戦が、後に研究の対象になり、別の対策が生まれる可能性があります。
準備を続けるとは、知識を無制限に暗記することではありません。相手の新手に出会っても、何が変わったかを考え、いま必要な研究を選ぶ力が重要になります。
大山の「好き嫌いをなくす」という考え
1990年4月号『将棋マガジン』の本人インタビューを紹介する記事には、好きな駒を問われた大山が、第一人者は好き嫌いをなくすべきだと語った場面が載っています。この資料は、今回の名言の直接の原典ではありませんが、好みだけで指し手を決めない姿勢が本人の言葉として紹介されていることを示します。
自分の好む展開に持ち込むことは立派な戦術になり得ます。一方、どんなときでも好きな形しか選べないなら、対応の幅を狭めるかもしれません。好みを自覚し、それが適切な局面とそうでない局面を区別することが必要です。
仕事や学びへの応用:専門性と対応力を育てる
仕事でも、ひとつの得意領域に深く取り組むほど、その専門性が成果を生みます。ただし、顧客や環境が変化したときに、過去の成功方法だけに頼れない場合があります。必要な基礎を学び、異なる方法の考え方を知っておくことで、状況を比較する能力が育ちます。
例えばマーケティングに詳しい人が技術や営業の知識を身につけると、施策の実現可能性や顧客対応について検討しやすくなるかもしれません。それは、すべての仕事を一人でこなすという意味ではありません。他人に任せるために知っておくことも、大切な準備です。
「何でもできる」を目指しすぎない
人間には学習時間や健康、生活上の制約があります。幅を広げようとして重要な専門性まで薄くするなら、本末転倒かもしれません。何を自分でできるようにするか、何を理解にとどめるか、誰と協力するかを分けて考えるべきです。
この名言は、無制限に器用になれという命令ではなく、自分の得意領域の外側を理解し、必要なときに選択肢を持てるようにするという問いとして読むことができます。
出典状態と参考資料
出典状態:要検証。対象の定型句は複数の名言集に大山名義で掲載されていますが、本人が一字一句述べた一次原典の初出は特定できていません。1990年の本人インタビューで紹介される別の発言と、将棋連盟による現代の戦法解説は、関連資料であって対象の一文の直接原典ではありません。
資料:名言集(流通表現)/2018年の語録(流通する長文)/1990年インタビュー再紹介/日本将棋連盟公式ストア・基本定跡ガイド/相居飛車編の改訂版。