仕事をしていると、「分かりません」と言うのが怖い場面があります。
経験を積むほど、なおさらです。
専門家として見られたい。頼られたい。期待を裏切りたくない。だから、十分に分かっていないことまで、つい分かったように話したくなる。
でも、知らないことを隠した瞬間から、学ぶことは難しくなります。
古代ギリシャのソクラテスをめぐって語られる「無知の知」は、そんなときに思い出したい考え方です。
「無知の知」は、ソクラテスの決め台詞ではない
日本では「無知の知」という言葉で知られていますが、これをソクラテス本人の短い名言として扱うと少し雑になります。
プラトンの『ソクラテスの弁明』では、ソクラテスが、自分も相手も本当には知らない事柄について、相手は知っていると思っているが、自分は知らないものを知らないと思っている――その点で自分の方がわずかに知恵がある、と考える場面があります。
つまり大切なのは、「私は何も知らない」と格好よく宣言することではありません。
自分がどこまで知っていて、どこから知らないのかを区別すること。
そこに、この考え方の面白さがあります。
「知らない」と言える人の方が、仕事では強いことがある
私はこれまで、技術、営業、コンサルティング、マーケティングなど、異なる領域をまたいで仕事をしてきました。
領域を移るたびに、自分が知らないことの多さに直面します。
そのとき役に立ったのは、全部を知っているように振る舞うことではありませんでした。
「ここまでは理解しています」「ここから先は分かりません」「この認識で合っていますか」と切り分けて聞くことでした。
分からないことを認めると、質問できます。質問できると、詳しい人の知識を借りられます。そして、自分一人では扱えなかった問題をチームで扱えるようになります。
以前書いた「また一緒に働きたい」と思った人たちの記事でも、信頼できる人の特徴として「分からないことを分からないと言えること」を挙げました。
知識が増えると、知らないことも増える
学び始めたばかりの頃は、一冊の本を読んだだけで「分かった」と感じることがあります。
ところが学び続けると、例外が見えてきます。別の立場が見えてきます。言葉の定義一つにも議論があることを知ります。
知識が増えたのに、自信満々に言えることはむしろ減っていく。
これは後退ではありません。
世界の解像度が上がった結果、分からない領域の輪郭まで見えるようになったとも考えられます。
だから「分からないことが増えた」という感覚は、学びが進んでいるときにも起こります。
AI時代には、「知らない」と言えることがもっと重要になる
生成AIを使うと、ほとんどの質問に数秒で文章らしい答えが返ってきます。
便利である一方、「答えがあること」と「正しいこと」を混同しやすくなりました。
これはAIだけの問題ではありません。人間も昔から、知らないことについてもっともらしく話してきました。
だからAIを使う側にも、「これは事実なのか」「解釈なのか」「出典はあるのか」「何がまだ分からないのか」を区別する態度が必要になります。
実は、このサイトを整理し直している理由の一つもそこにあります。
過去に公開した記事を「公開済みだから正しい」と扱わず、出典を確認し、怪しいものは非公開にし、書き直せるものは書き直す。
知識を蓄積することだけでなく、自分の知識を疑えることも、知識を扱う仕事の一部だと思うようになりました。
「分からない」で止まらない
もちろん、「分かりません」と言えばそれでいいわけでもありません。
無知を認めることは、学ばないことの言い訳ではないからです。
知らないと気づく。問いをつくる。調べる。人に聞く。試す。そして、また自分の理解を疑う。
「無知の知」はゴールではなく、学びのスタート地点として読む方が私は好きです。
答えを持つ人より、問いを持てる人へ
仕事でも人生でも、すぐに答えが出ないことの方が多くあります。
自分に向いている仕事は何か。どこまで頑張るべきか。何を大切にして生きるのか。
こうした問いに、誰にでも当てはまる完成した答えはありません。
だから、知らないことを恥じるより、知らないところから考え始める。
以前、言葉を「考えるための足場」と書きました。
哲学の概念も同じです。
無知の知は、答えを与えてくれる言葉ではなく、自分の理解の境界線を確かめるための問いなのだと思います。
出典メモ:「無知の知」は後世の要約的な表現として広く使われています。本記事では、プラトン『ソクラテスの弁明』に描かれた、知らないことを知っていると思わないというソクラテスの態度を中心に扱っています。
ソクラテスを人物から読む
ソクラテス人物ページでは、「無知の知」の原典だけでなく、歴史上のソクラテスとプラトン作品のソクラテス、後世の誤帰属まで整理しています。