はじめに
「自分を愛するというのは一生続くロマンスの始まりだ。」――オスカー・ワイルドの言葉として有名な一文です。英語の原文は “To love oneself is the beginning of a lifelong romance, Phipps.”。
この言葉には明確な出典があります。1895年に初演された戯曲『An Ideal Husband(理想の夫)』第3幕で、ロード・ゴーリングが従者フィップスに語る台詞です。
ただし、これをワイルド本人が読者へ直接説いた「自己肯定の教え」として読むと、作品の面白さをかなり落としてしまいます。場面を読むと、この言葉はもっと洒落っ気があり、自己愛と自己陶酔の境界まで含んだ喜劇的な警句だからです。
誰が、どんな場面で言っているのか
第3幕の冒頭、ロード・ゴーリングは従者フィップスを相手に身支度をしています。彼は「流行とは自分が着ているもの」「俗悪さとは他人の振る舞い」といった逆説を次々に口にし、さらに「他人はまったくひどい。唯一可能な社交相手は自分自身だ」と言います。
その直後に続くのが、「自分を愛することは、生涯続くロマンスの始まりだ」です。
そしてゴーリングは鏡を見ながら、自分の花飾りが少し老けて見えないかと気にします。つまり、この一文は抽象的な自己啓発講義の中で出てくるのではありません。自分自身を魅力的に演出することに長けたダンディな人物の台詞として置かれています。
「自己愛は大切」というだけではない
もちろん、この言葉を「他人の評価だけに依存せず、自分自身との関係を大切にする」という意味で読むことはできます。自分とは生涯付き合っていく以上、「lifelong romance」という比喩には現在でも魅力があります。
しかし、作品中のゴーリングは単純な自己受容の模範ではありません。自分を眺め、自分の服装を気にし、自分以外の人々を軽妙にこき下ろす人物です。
だからこそ、この台詞には二重性があります。自分を愛せることの自由さと、自分に夢中になりすぎることの滑稽さが同時に見えてきます。
ワイルドの警句は、きれいな教訓へ一本化すると魅力が薄れます。肯定と皮肉が同じ一文の中に共存しているところに面白さがあります。
現代に引き寄せて考える
現在では「自己肯定感」「セルフラブ」といった言葉が広く使われています。その文脈でこの一文が引用されるのも理解できます。
ただし、ゴーリングの姿まで含めて読むと、もう一つ問いが生まれます。自分を大切にすることと、自分だけを中心に世界を見ることはどこで分かれるのでしょうか。
自分の価値を他人の評価だけに委ねないことは重要です。一方で、自分自身への愛情が他者への無関心へ変われば、それは別の問題になります。
「生涯続くロマンス」という華やかな表現には、ロマンスそのものが持つ陶酔や思い込みまで含まれているようにも読めます。そこまで考えると、この言葉は単なる自己肯定のスローガンよりずっと奥行きがあります。
まとめ
「自分を愛することは、生涯続くロマンスの始まり」は、オスカー・ワイルド『理想の夫』第3幕でロード・ゴーリングが語る真正な台詞です。
重要なのは、これをワイルド本人の心理学的な教えと取り違えないことです。鏡を見ながら自分を演出するゴーリングの人物像と一緒に読むことで、自己愛への肯定だけでなく、その自己陶酔的なおかしさまで見えてきます。
自分を愛することは大切かもしれない。しかし、自分とのロマンスにも少し距離を置いて笑えるか。そこまで含めて読むと、ワイルドらしい警句としての魅力が残ります。
オスカー・ワイルドを人物から読む
オスカー・ワイルド人物ページでは、本人が書いた警句と、小説・戯曲・対話篇の登場人物の台詞を区別しながら、逆説・美・自己演出・翻訳の変化を横断して読めます。
出典:オスカー・ワイルド『An Ideal Husband(理想の夫)』第3幕で、ロード・ゴーリングが従者フィップスに語る台詞です。University College CorkのCELT公開本文で、原文と前後の会話を確認できます。