はじめに
「経験は最良の教師である。ただし、授業料は高い」。失敗してからようやく身に染みることがある、という現実を短く言い当てる格言です。英語ではトーマス・カーライルの名で紹介されることがあります。
実は、カーライルがこの英文を文章中に記したことは確認できますが、彼が初めて作った言葉とは確認できません。名言の「掲載を確かめた」と「作者を特定した」は別の調査結果なのです。
ここでは1828年の評論と1833年の再掲載を手掛かりに、英語の原文、誰の言葉として扱えるのか、そして経験の授業料という比喩をどう読むかを考えます。
原文はカーライルの1828年の評論に登場する
Quote Investigatorの書誌調査によると、1828年刊『The Foreign Review and Continental Miscellany』第1巻第2号の評論「Goethe’s Helena」438ページに、この格言に対応する英文が見られます。評論はゲーテの作品を論じたものです。
該当の英文は、Experience is the best of schoolmasters; only the school-fees are heavy. です。直訳に近く表せば「経験は学校の先生の中でも最良だが、その授業料は高くつく」という意味になります。
1833年の雑誌『The Knickerbocker』第1巻第2号にも、カーライルの文章が再掲載されています。この再掲載版の該当ページ(86ページ)では、言葉の直前に「経験は彼を教えるだろう」という趣旨の一節があり、評論の議論の中で格言が使われたことを確かめられます。
なぜ「カーライルが作った」とは言い切れないのか
大切なのは、カーライルがこの英文を引用符の中に置いている点です。自分の評論に書いたことは確かでも、すでに使われていた言い回しを借りた可能性が残ります。
このため、厳密には「カーライルの1828年の評論で確認できる言葉」「カーライルが引用した格言」と表現する方が、「カーライルが生み出した名言」と断定するより正確です。出典を見つけることと、初作者まで確定することは同じではありません。
他方、引用符があるからといって、誰が先に使ったか自動的に分かるわけでもありません。「別人の言葉だった」とするには、その人物の書いた確かな先行資料が必要です。作者が未確定なら、未確定のまま示すことが信用につながります。
カーライル以前にも、近い発想があった
Quote Investigatorは、ベンジャミン・フランクリンの1743年『Poor Richard’s Almanack』に、経験が高くつく学校であるという趣旨の先行表現を紹介しています。これは1828年のカーライルの英文とまったく同じ文ではありません。
また、19世紀の資料には、この種の格言が別の人物に帰属された例もあります。似た文章が複数の言語や人物名を経て広まることは珍しくありません。原文が短いほど、伝達の途中で形が整えられやすい面があります。
したがって、現段階で言えるのは、カーライルによる1828年の用例が具体的に確認でき、同じ発想の先行例もあるというところまでです。18世紀から19世紀にかけて一人が一度で創作したとする物語を作る必要はありません。
「授業料が高すぎる」は原文そのままか
英語の school-fees are heavy は「学費の負担が重い」「授業料が高くつく」といった比喩です。日本語で「高すぎる」とすることも自然ですが、原文の heavy を機械的に「過度に高い」と訳したものではない点には注意したいところです。
経験から得られる教訓は、失った時間やお金、人との関係、心の痛みを代価として手に入る場合があります。自分で失敗して初めて気づくこともある一方、二度と繰り返したくないほど高くつくこともある。そこに、この比喩の皮肉があります。
ただし、危険な経験をした方が人間として成長する、とまで主張する言葉ではありません。「経験は役に立つ」という肯定と、「代償は軽くない」という警告を同時に読む方が、言葉の形に忠実でしょう。
経験と、他人から学ぶことは対立しない
新しい仕事を始めるとき、すべての失敗を自分で経験する必要はありません。先に経験した人の話を聞く、過去の事例を読む、小さく試してから投資を増やす。そんな方法でも、学びの機会は作れます。
一方で、本や人の説明だけでは、実際に取り組むときの難しさが分からない場面もあります。重要なのはどちらが絶対に上かではなく、他者の知識で避けられる失敗と、自分で試す価値がある経験を見分けることでしょう。
たとえば、新しい道具を導入するなら、まず小規模に試す。予想と違ったら理由を記録する。大きな契約や安全に関わる判断では専門家や信頼できる資料を確認する。経験の授業料を払う前に、下げられる費用は下げるという発想です。
出典と確認できていないこと
本記事で確認した資料は、1833年『The Knickerbocker』再掲載版の本文(86ページ)と、Quote Investigatorによる出典調査です。後者には1828年の『The Foreign Review』第1巻第2号、評論「Goethe’s Helena」438ページという書誌が示されています。
1833年の再掲載本文では、カーライルが該当英文を引用している箇所をたどれます。1828年初掲載号の紙面画像については、この更新時点では直接のページ照合を完了していないため、1828年の巻号・ページは書誌調査で確認された情報として区別します。
出典状態:要検証を維持します。 カーライルの文章に同じ英文が存在することは確認できました。しかし、彼がこの格言を最初に創作したことまでは確かめられません。作者の確定、先行例との関係、後代の意訳については、分かったことと未確定なことを分けて示します。
まとめ
「経験は最良の教師、ただし授業料は高い」という格言は、カーライルの1828年の評論に用例を遡れる一方、本人が引用符を付けているため創作者と断定できない言葉です。
この事実を知ると、名言を人名と一緒に暗記するよりも、どの資料のどんな議論の中で使われたのかを読む方が実りあることが分かります。出典が明らかになるほど、かえって簡単な断定を避けるべき場合もあるのです。
経験が学びをもたらすことも、失敗が高くつくことも確かです。だからこそ、自分で試すことと、先人の経験を借りることを上手に組み合わせたい。教訓を得るために、すべての授業料を自分で払わなくてもよいのです。