はじめに
「みせかけの快はしばしば真正の悲しみにまさる」と訳されるデカルトの言葉には、『情念論』第142節に明確な原典があります。
しかし「表面的な幸福が本当の悲しみを隠す」という意味ではありません。原文はむしろ、原因について誤っている喜びであっても、原因が真実である悲しみより、魂にとって好ましい場合があるという意外な議論です。
「偽り」なのは感情ではなく原因の認識
デカルトが問題にするのは、喜びという感情が演技か本物かではありません。喜びや悲しみを生み出した判断・原因が正しいかどうかです。
誤った認識にもとづいて喜んでいる場合、その喜びは確かな基礎を持ちません。それでも情念を魂それ自体との関係だけで考えるなら、悲しみや憎しみより、喜びや愛へ傾くほうがよい場合があると述べます。
ただし、次の節で条件が付く
ここだけ読むと「事実が間違っていても幸せならよい」という思想にも見えます。しかし続く第143節では、情念が欲望を生み、行動を導く場合には話が変わるとします。
原因が誤っている情念は害を与えうる。特に誤った喜びは軽率さを生むことがある。つまりデカルトは、単純に真実より幸福を優先しているわけではありません。
まとめ
「偽りの喜びは真の悲しみにまさる」という言葉は真正ですが、旧来の「笑顔の裏に悲しみがある」という意味ではありません。
感情そのものの価値と、その感情を生んだ認識の真偽を分けて考える。そして感情が行動へつながる段階では、再び真偽が重要になる。短い名言だけでは見えにくい、『情念論』らしい精密な議論です。