はじめに:未来の不幸を先取りしてしまうのか
「結局のところ、最悪の不幸は決して起こらない。たいていの場合、不幸を予期するから悲惨な目に遭う」。バルザックの名言として広く流通する一文です。将来を心配している間に、その想像によっても苦しんでしまうという心理を巧みに言い表しています。
英語圏では「After all, our worst misfortunes never happen, and most miseries lie in anticipation.」と引用されています。しかし、この英文に対応するバルザック本人のフランス語原文と作品名は特定できていません。
今回は英語での古い帰属資料と、よく似た別の名言の引用史を区別します。ある人物名で長く流通していることと、その人物が書いたことの証明は同じではありません。
1891年『A Dictionary of Thoughts』に残る帰属
引用資料WISTはこの英文をバルザックに帰属し、出典欄にトライオン・エドワーズの『A Dictionary of Thoughts』1891年版を記しています。少なくとも19世紀末の英語名言集までたどれる手掛かりです。
Open Libraryの書誌は、1891年にCassell Publishingから同書が刊行されたことを示しています。これは書物の刊行事実を確認する資料です。
ただし、今回はこちらで1891年版の該当ページを直接めくって文言を逐字照合したわけではありません。WISTの出典案内を確認した段階であり、この英語をバルザックが最初に語った証拠ではないことを明記します。
原文はフランス語のどの作品にあるのか
バルザックはフランス語で多くの小説や書簡を残しています。本人の言葉と判定するためには、作品名、章、フランス語の文言、参照した版を示すのが望ましいでしょう。
今回の資料では英語の定型句は見つかりましたが、そのフランス語の対応箇所は確認できませんでした。英語の語順からフランス語のそれらしい一文を逆翻訳しても、それは原典の発見にはなりません。
そのため、バルザックがこの言葉を述べた場面を想像し、恋愛や借金の苦労などの伝記的事実に結び付ける説明も避けます。作家の人生に合いそうだという印象は、引用の根拠にはならないためです。
似た「大半の苦労は起こらなかった」との違い
「人生で心配した多くの苦難は、結局起こらなかった」という別の名言もあります。マーク・トウェインやチャーチルの名前で広まりますが、Quote Investigatorの調査によれば、1881年のガーフィールドによる引用など、複雑な来歴が存在します。
こちらの系統は、過去に経験したつもりの苦労の多くが実際には起こらなかったというユーモアを中心にします。一方、バルザック名義の文章は「予期することの中に悲惨さがある」という構成です。
主題が似ているからといって、二つを同じ英文の翻訳だと扱うことも、同じ作者へ帰属させることもできません。似た発想と、同じ文章の伝達史は別の問題です。
「最悪の不幸は決して起こらない」の強い言い方
英語の never は「決してない」という強い言い方です。しかし、現実には深刻な事故や病気、災害が起きることがあります。この一節を、人生では最悪のことが絶対に起こらないという予測として信じるべきではありません。
文学的な逆説として読めば、起こるかどうか分からない不幸を、心配することで何度も経験したかのように感じる状態が見えてきます。危険の可能性と、まだ起きていない苦しみの感覚を切り分ける表現です。
ただし、何かを恐れる人に「どうせ起こらない」と言い切るのは、その人の置かれた状況を軽んじる場合もあります。言葉の勢いを、他者を安心させるための根拠のない断言に使わないようにします。
心配と準備の境目を見つける
例えば新しい仕事を始める前に、失敗の可能性を考えて必要な準備をすることには意味があります。連絡先や資金、段取りを確認するのは、想定を具体的な行動へ変えることです。
一方、同じ最悪の場面を何度も想像するだけで、実際の対策が増えないときもあります。何が起こるかを考えることと、それに対して何をするかを決めることは別です。
だからといって、すべての不安を本人の考え方の問題へ還元することもできません。現実の危険を減らす支援や、他者と協力できる条件も同じくらい重要になります。
19世紀の思想と現代の心理学を混同しない
この英文が19世紀末の引用集に載っていたとする案内があることは、当時から予期する不幸への関心があった手掛かりになります。しかし、それだけでバルザックが現代の心理学の理論を先取りしたと証明されたわけではありません。
現在、将来の不安や認知の偏りについてさまざまな研究がありますが、ここではその結果をこの名言の歴史的証拠へ流用しません。作者の同定、思想の解釈、経験的な研究結果は異なる種類の問いだからです。
この文章を生活へ応用するなら、予期した事柄のうち実際に起きたものと起きなかったものを区別する、という考え方ができます。ただし、この方法をバルザック本人が提案したと称することはしません。
まとめ:英語の古い帰属と仏語原典は別
確認できたのは、WISTが示す1891年『A Dictionary of Thoughts』への引用案内と、同書の刊行書誌です。19世紀末の英語名言集にバルザックの名があったという、具体的な手掛かりが得られました。
それでも、1891年の該当紙面の直接照合、フランス語での原文の発見、バルザック本人の作品との接続は残っています。古い英語の帰属資料があっても、作者性が確定したとは言えません。
したがって出典タグ117(要検証)を維持します。予期する不幸に苦しむという観察を読み解きつつ、正しい資料が見つかるまで歴史的な人物名には慎重であり続けます。