ポープ「人間はすべて善でもあり、悪でもある」|『Essay on Man』第2書の原文と意味

「人間はすべて善でもあり、悪でもある。極端はほとんどなく、すべて中途半端だ。」

アレクサンダー・ポープの言葉として流通するこの表現には、はっきりした原典があります。

出典は、18世紀イギリスの詩人ポープによる長編哲学詩『An Essay on Man(人間論)』第2書です。

原文は「Virtuous and vicious every man must be」

Virtuous and vicious every man must be,
Few in th’ extreme, but all in the degree.

直訳に近づければ、「誰もが徳も悪徳も持つ。極端な者は少なく、違いはその程度にある」といった意味です。

日本語で流通する「善でもあり、悪でもある」「極端はほとんどなく、すべて中途半端だ」は、少し平易にした訳ですが、原文の中心はよく捉えています。

ポープが言っているのは「人間は中途半端だからよい」という話ではない

この一節だけを切り出すと、「人間には善悪の両面がある」という一般的な人格論に見えます。

しかし前後を読むと、ポープの関心はもう少し複雑です。

彼はまず、人は他人の悪徳を見つける一方で、自分自身については「そこまで悪くない」と考えがちだと描きます。そして、絶対的な悪徳や絶対的な徳を持つ人はほとんどおらず、実際の人間はその間に分布していると続けます。

つまり問題は、単純な善人・悪人の二分法ではなく、同じ人の中に徳と悪徳が入り混じり、その程度が変化することです。

続く行では、さらに人間の揺れを描く

ポープは続けて、愚かな者や悪党であっても、ときには公正で賢く振る舞い、反対に「最善の人」ですら、ときには自分が嫌悪するような振る舞いをすると書いています。

ここには、人間の人格を一回の行動や一つの属性だけで固定できないという見方があります。

「善い人だから常に善い」「悪い人だから常に悪い」という整理は、実際の人間より単純すぎる。

「中庸」よりも、善悪のグラデーションとして読む

この言葉は、ときどき「極端を避けて中庸でいよう」という教訓として紹介されます。

ただ、原文の Few in th’ extreme, but all in the degree は、「中庸こそ善である」というより、人間の善悪には程度があるという観察に近い表現です。

だから現代に引き寄せるなら、「誰かを善人・悪人というラベルだけで理解していないか」という問いの方が、原文にはよく合います。

善と悪の区別そのものが消えたわけではない

この一節の数行前に、ポープは、白と黒がさまざまな割合で混ざるとしても、白と黒が存在しないわけではない、と問いかけます。つまり人が徳と悪徳の両方を持つことと、徳・悪徳の違いをすべて否定することは別です。人間が複雑だからといって、どんな行為も同じように正しい、という結論にはなりません。

むしろ、その複雑さを認めながら、自分の行動や判断をどこまで見直せるかが問題になります。一時の誤りだけで人間全体を決めつけない一方、実際に他者へ害を与える行為を曖昧に正当化しない。こうした区別が原文を現代に引き寄せるときの重要なポイントです。

個人の複雑さから、社会全体の秩序へ

さらに続く行では、個人の欠点や情念が、本人の意図を超えて社会全体の関係を生み出すという議論が広がります。ポープは、人間の不完全さを観察するだけでなく、それを含めた神の摂理や世界の秩序という大きな問題を考えています。現代の「性格診断」だけを扱った詩ではない点も知っておきたいところです。

出典と判定

原文はProject Gutenberg公開のAlexander Pope, An Essay on Manで確認できます。該当箇所はEpistle IIで、トロント大学Representative Poetry Onlineの第2書・231〜240行には行番号付きで掲載されています。また、Academy of American Poetsの公開本文でも、前後の表現を照合できます。

したがって、この言葉はポープ作品に明確な原典を持つため、この記事では「出典確認済み」と判断します。

引用の判定基準は出典ステータスの読み方にまとめています。

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