はじめに
「哲学するとは死ぬことを学ぶこと」。モンテーニュの代表的な言葉として知られ、『エセー』第1巻には実際に「Que philosopher c’est apprendre à mourir」という章があります。
ただし、ここには重要な背景があります。章の冒頭でモンテーニュ自身が、この考えをキケロに帰しています。つまり完全に彼がゼロから作った標語として読むより、古典哲学から受け取った主題を自分の生の問題として展開した文章として読む方が正確です。
章は「キケロはこう言う」から始まる
モンテーニュは冒頭で、キケロは「哲学することは死への準備にほかならない」と言う、と紹介します。そして、思索が魂を身体からいくらか引き離すことは死の練習に似ている、あるいは世界の知恵は結局、死を恐れないよう教えることへ向かう、と論じます。
したがって「哲学=死を学ぶ」という章題は真正ですが、その思想的系譜を消して「モンテーニュが言った一言」だけにすると、文章の成り立ちが見えなくなります。
死を考える目的は、生を暗くすることではない
この章でモンテーニュが目指すのは、死ばかり考えて生を悲観することではありません。死への恐怖に支配されないことです。
死は避けられない。それなら死を未知の怪物として遠ざけ続けるのではなく、普段からその存在に慣れておく。そうすれば、死への恐怖が現在の生を拘束する力を弱められると考えます。
「死の予習」は自由の予習でもある
同じ章には、死についてあらかじめ考えることは自由について考えることだ、死ぬことを学んだ者は隷属することを忘れた、という趣旨の文章もあります。
ここでは死生観と自由がつながっています。最大の恐怖である死に対する支配力を弱めれば、外から加えられる多くの脅威にも以前ほど支配されなくなる。死を学ぶことは、生を自分のものとして取り戻す訓練でもあります。
「モンテーニュの名言」であり、同時に引用の歴史でもある
このケースは名言の帰属を考えるうえでも興味深い例です。章題としてモンテーニュが採用し、その内容を大きく展開している以上、モンテーニュの思想を表す言葉として扱う理由はあります。
一方で、本人が冒頭で先行するキケロを明示しています。思想家の有名な言葉は、必ずしも一人の頭から突然生まれるわけではない。古典を読み、受け取り、自分の経験の中で書き換えていく。その知的継承まで含めて読むと『エセー』らしさが見えてきます。
まとめ
「哲学するとは死ぬことを学ぶこと」は『エセー』の真正な章題です。ただしモンテーニュはその冒頭で、キケロの言葉としてこの考えを導入しています。
そして彼自身の文章では、死を考えることは生を暗くするためではなく、死への恐怖から自由になり、より自由に生きるための実践へ変わっていきます。短い章題だけでなく、その継承と展開まで読むことで、この言葉はずっと豊かになります。
この言葉をテーマから読む
「哲学するとは死ぬことを学ぶこと」は、モンテーニュだけの孤立した標語ではなく、キケロへさかのぼる引用の系譜を含む言葉です。「死とは何か」では、セネカ、パスカル、トルストイも含め、死の意識が生の価値や現在の時間をどう変えるかを比較しています。