はじめに:柳生宗矩は「平常心」をどう説明したのか
「平常心をもって一切の事をなす人、これを名人というなり」。柳生宗矩の言葉として広まる一節です。何事にも動じない性格が優秀だという教訓に見えますが、『兵法家伝書』で扱うのは、修練を積んだあとに過度な意識を離れて技を使うことです。
この言葉の前には、僧が道を尋ね、別の僧が「平常心是れ道」と答える禅の問答が置かれています。古くから伝わる問答と、宗矩が兵法の説明に用いた言葉を分けて読むと、名人の意味が変わって見えます。
今回確認できたのは、書籍の書誌、1937年刊の翻刻を底本とする案内、1985年岩波文庫版55ページ・58ページの引用を掲載した読書記録です。本文の原物画像を独立して逐字校合したわけではないため、その限界も示します。
出典は『兵法家伝書』の「平常心」に関する箇所
柳生宗矩(1571〜1646)の『兵法家伝書』は、剣術に関する技と心の問題を論じた伝書です。国立国会図書館の書誌には、渡辺一郎校注による1985年の岩波文庫版が登録されています。
この版を読んだ記録は、55ページとして、「此平常心をもつて一切の事をなす人、是を名人と云ふ也」という部分を紹介します。版とページを伴う転写が確認できるため、単に人物名だけを付けた名言サイトよりも所在が明確です。
ほかに、1937年刊『秘籍大名文庫』第二冊の翻刻を底本とする原典ガイドがあります。ただし、今回その1937年刊本の該当箇所と1985年版を直接突き合わせたわけではありません。
禅の「平常心是れ道」は宗矩の創作ではない
宗矩が引用する問答では、「道とは何か」と尋ねられた僧が「平常心是れ道」と答えます。この言葉は、禅の南泉普願と趙州従諗の問答としても伝わっています。
本願寺派の仏教用語解説でも、この「平常心」は一般に使う「いつも落ち着いている心理状態」だけではないことが示されています。禅語としての「びょうじょうしん」と日常語の「へいじょうしん」は重なっても同じではありません。
宗矩の独自性は、既存の問答を剣術やその他の技能の実践へ引き寄せて説明したところにあります。禅僧の言葉を宗矩の最初の発明として扱わないことが出典の理解につながります。
「常の心」とは、何もしないことではない
55ページとして紹介された文章には、「何もなす事なき常の心にて、よろづをする時、よろづの事、難なくするするとゆく也」という趣旨の箇所があります。
何もしない状態が優れているという話ではありません。作業の最中に、うまく見せよう、失敗してはいけないといった思いへ過剰に縛られないことを示していると読めます。
ただし、緊張がまったく生じないことを保証する理論でもありません。宗矩の文章を現代の心理学実験の結果として説明するのは避け、技芸の熟達に関する古典的な考えとして位置付けます。
弓・剣・文字・琴を並べる理由
関連する説明には、弓を射る、太刀を扱う、文字を書く、琴を弾くといった、複数の技能が登場します。剣術の場面だけでなく、身体を使いながら何かを実行する技芸全体を考えるための例です。
慣れないうちは細かな動きを一つずつ考えます。経験を重ねて同じ動作を繰り返すと、意識しないでも行える部分が増える場合があります。ただし、慣れた動作が常に正確とは限らず、誤った癖も身に付くことには注意が必要です。
したがって「平常心」という表現を、基本を知らないまま気楽に実践すればよいという話に変えることはできません。技を覚えることと、覚えた技への過剰な固執から離れることが、順序をもって描かれています。
稽古を重ねてから「習いがなくなる」
同じ読書記録では58ページとして、稽古を重ねるうちに「はやよくせん」と思う心が薄れ、身や手足が自然に動くようになる一節が紹介されています。何も教わらずに名人になるという意味ではありません。
日々の練習で身に付けた技能を、実行時に逐一意識せず使える状態が、理想の一つとして描かれているのでしょう。音楽家が基本の運指を練習し、のちに表現へ意識を向けられるようになる例を考えると理解しやすくなります。
もっとも、これは本サイトによる現代への比喩です。宗矩本人がスポーツのパフォーマンス理論や認知科学を実証したという説明ではないことを明確にしておきます。
現代の仕事でも「力みを消す」は万能ではない
発表や試合の前、必要な準備を済ませたなら、直前まで失敗ばかり想像するより、目の前の動作へ注意を向ける方がよい場合があります。結果への過剰な意識より、いま行うべきことへ集中するという読み方です。
一方、強い不安のある人に「平常心になれば大丈夫」と命じたり、無理な労働条件の問題を個人の心構えだけへ帰したりするのは不適切です。技能の発揮には環境、支援、準備も影響するからです。
この一節を、自分や他人の感情を抑え込む規律として使わず、練習してきたことを必要以上に縛らず活用できる状態を考える材料にする方が自然でしょう。

まとめ:文庫版の所在と、なお残る校合課題
今回たどれた主な資料は、1985年岩波文庫版の書誌、55ページと58ページを紹介した読書記録、1937年刊の翻刻に基づく案内です。
しかし、1985年刊本の該当ページと1937年版の本文を原画像で逐字比較する作業は未完了です。そこまで終えないうちは、現代の仮名遣いへ直した流通句を原稿の完全な引用とは表示しません。
そのため出典タグ117(要検証)を維持します。今後の格上げ判断は、刊本の当該箇所を直接確認し、禅の引用部分と宗矩の文章を区別できた段階で行います。出典判定の説明も参照できます。