「知っている曲があるから子どもが喜ぶかっていうと、それは大人が思っているだけで、子どもは知らないものばっかり毎日見ているんですよ」。指揮者の井上道義氏の言葉として紹介されています。親しみやすい曲だけを演奏すれば子どもが喜ぶ、という大人側の思い込みに問いを投げかける一節です。しかし、本人が実際に組んだコンサートを調べると、知らない音楽を届けるために、知っている曲の力も利用していたことが分かります。
この言葉そのものの出典はどこまで確認できたか
冒頭の文は、井上道義氏名義の名言集や、2022年に公開された言葉の紹介記事に掲載されています。ただし、同一文が語られた最初のインタビュー、収録日、紙媒体のページは今回特定できませんでした。ゆえに流通する発言として扱い、以下の公演記録がその一句の初出だとは主張しません。
一方、2013年8月19日付のAll Aboutのインタビューでは、井上氏本人が、知らない音楽へ観客を導くための具体的な選曲と演出について話しています。さらに本人の公式サイトには、同年10月6日の公演記録と振り返りが掲載されています。これらを、言葉の背景にある音楽観を考える確かな手掛かりとします。
2013年の「日比谷野外オーケストラ・ピクニック」
2013年に企画された日比谷野外音楽堂でのコンサートでは、久石譲による『千と千尋の神隠し』『魔女の宅急便』『となりのトトロ』の音楽と、マーラーの交響曲などがプログラムに並びました。井上氏は、普段クラシックを聴かない人や家族連れにも気軽に来てもらいたいと説明しています。
しかし、なじみ深い作品だけを並べたわけではありません。オーケストラ本来の重要なレパートリーを、初めて聴く人にも体験してほしいと考え、マーラーを取り上げています。ここで、知っているものと未知のものの間に橋を架ける意図が見えてきます。
大人が知っている曲と、子どもが知っている曲は違う
井上氏の公式サイトでの公演後の振り返りでは、子どもの側がよく知る作品と、指揮者自身がよく知る作品を組み合わせたプログラムだったと説明しています。
重要なのは、子どもにとって「知っている曲」自体を否定したわけではないことです。身近な音楽は会場へ入るきっかけになり得ます。その先に、聴いたことのない曲も置く。子どもが知らないものに出会う力を、大人が過小評価しないという読み方ができます。
未知の音楽に出会うための演出
All Aboutのインタビューでは、曲名に交響曲の番号などが付くと、難しそうだと受け止められることを井上氏が気にかけている様子も分かります。また、ネクタイや革靴で構えず、ピクニックに行くような気持ちで参加してほしいと説明します。
未知の曲に触れることの障壁は、作品そのものの難しさだけではありません。会場の雰囲気、料金、服装への不安、専門用語なども関わります。そうした入口を工夫しておきながら、演奏する内容の質を落とさない。その両立は、文化体験を広げる一つの方法です。
子どもに「難しいから無理」と先回りしない
初めての体験が楽しいかどうかは、子どもごとに異なります。ある子には聞き慣れない響きが面白く、別の子には大きな音がつらいかもしれません。年齢だけで一律に判断するのではなく、本人の反応や会場の条件を見ながら調整する必要があります。
つまり「子どもなら未知のものを必ず喜ぶ」と断定するのも、別の大人の思い込みです。新しい出会いを用意することと、喜び方を本人に強要しないことを分けるのが大切でしょう。
音楽教育における二つの入口
身近な曲を一緒に歌ったり演奏したりする経験は、安心して参加できる入口になります。他方、普段とは異なる楽器の音色やリズムに触れると、自分の興味の幅が広がることもあります。
井上氏の公演では、この二つを対立させませんでした。なじみのある映画音楽を楽しむ人に、思いがけないクラシック作品との出会いを用意する。好きなものを尊重しながら、新しいものを紹介する考え方です。
大人にも当てはまる、知らないものとの距離
2013年の別のインタビューでは、井上氏は旅先で思いがけない風景を発見した経験を語り、普段聴かない音楽にも未知の美しさを見つけてもらいたいと述べています。これは子どもだけでなく大人にも関わる問題です。
仕事や学びでも、最初は分からないものに触れることがあります。何が面白いのか理解するには時間がかかることもありますが、初めから「自分には向いていない」と決めつける必要もありません。ただし、これは当サイトの現代的な応用であり、本人が学習理論として実証した話ではありません。
井上道義氏の音楽観をもう少し知る
2024年2月、最後のNHK交響楽団定期出演に向けたインタビューでは、ショスタコーヴィチの作品と歴史や現実社会との関係を深く語っています。音楽が単なる馴染みやすさだけでなく、聴く人の世界の見方へ関わるものとして扱われていたことを知る参考になります。
ただし、2024年の取材は2013年の発言の証明ではありません。異なる時期の本人の言葉として、読者がその活動の幅を理解するために紹介しています。井上氏は2024年12月30日をもって指揮活動を引退しました。
まとめ――なじみのある曲から、知らない世界へ
「子どもは知らないものばかり毎日見ている」という言葉は井上道義氏名義で流通していますが、逐語的な初出は未特定です。一方、本人の公演記録からは、子どもになじみのある曲を入口にしながら、マーラーなど未知の音楽も正面から紹介する実践が確認できます。身近なものを尊重し、知らないものに出会う機会を狭めない。その両立が、この言葉から考えられる最も実践的な姿勢でしょう。
資料・出典判定
【本人への取材】All About「井上道義インタビュー 野音で野外コンサート!」(2013年8月19日)。映画音楽とマーラーの選曲意図、初心者に向けた公演設計、未知の音楽の発見について確認。
【本人の公式記録】井上道義公式サイト「Schedule 2013.oct」。2013年10月6日のプログラムと公演後の振り返りを確認。
【後年の本人への取材】NHK交響楽団「井上道義に聞く」(2024年1月18日)。ショスタコーヴィチの選曲背景。本人の引退情報についてはKAJIMOTOの人物紹介も参照。
【発言の流通形】井上道義の名言集。冒頭の日本語の掲載例。出典判定の考え方。発言の正確な初出は未特定であり、直接インタビューと混同しません。
