はじめに――「苦はなきものを」は本当に南畝の歌か
「世の中に苦はなきものを、我とわが楽を求めて苦しみぞする」。この歌は、蜀山人としても知られる江戸の文人・大田南畝の作として広く紹介されています。一度読めば、幸福を求める行為が逆に苦しみを生むという、少し皮肉な構図が目に入ります。ただし、名のある文人に帰されることと、原歌集に作品を確認できることは別です。
旧記事はこの歌を南畝本人の確実な作とし、「この世には絶対的な苦しみが存在しない」という思想まで読み込んでいました。しかし、今回確認した範囲ではこの歌の初出、収録作品、巻・頁が特定できていません。本人の思想を断定する説明には立ち止まる必要があります。
南畝が狂歌の世界で際立った存在だったことは確かですが、江戸の狂歌には後世の編集や作者名の混同もあります。ここでは、確実な人物情報、流通する歌の文言、確認できない作者帰属を分け、歌を文学的な表現として読み直します。
大田南畝と狂歌――笑いを含む言葉の世界
大田南畝(1749〜1823年)は、四方赤良・蜀山人などの名でも知られ、狂歌、狂詩、随筆、戯作に活動を広げた江戸の文人です。『世界大百科事典』などの人物解説では、機知と滑稽を特色とする狂歌で江戸文芸の中心的存在になったことが説明されています。
狂歌は、和歌の形式を使いながら、日常の滑稽さや人間の矛盾を自由に詠む表現です。国文学研究資料館の解説も、狂歌がパロディーや諧謔を自在に織り込むことを紹介しています。人生訓のように聞こえる歌も、断定的な哲学ではなく機知として読む余地があります。
「楽を求めて苦しむ」という逆説も、幸福についての絶対法則というより、欲張りな人間の姿を少し笑う表現として受け取ることができます。もっとも、この特定の歌が南畝によってどの状況で詠まれたかは分かっていません。文体が南畝らしいという印象だけでは本人作を確定できないのです。
「蜀山人」と書かれていても本人作とは限らない
国文学研究資料館の神作研一氏は、1843年刊『狂歌百人一首』について、題簽や見返しに南畝を連想させる「蜀山先生」「蜀山人」の表示がある一方、収録作の大半を南畝作とは見なし難いと説明しています。これは、作者名が付いた古典資料を読む際の重要な注意です。
ただし、この説明が問題の「世の中に苦はなきものを」の歌を『狂歌百人一首』に収録すると示しているわけではありません。同書の編纂事情を、今回の歌そのものの偽作証明へ使うこともできません。引用の出典探しでは、こうした推測の飛躍を避ける必要があります。
今回、一般向けの名言紹介では南畝の作として掲げる例を確認できましたが、古い刊本の画像や信頼できる翻刻本文から、この歌を確認できる資料には到達していません。現状は「大田南畝の作として流通する歌。原典と作者帰属は要検証」という表現が適切です。
「楽を求めるほど苦しむ」という逆説をどう読むか
歌をそのまま読むと、より楽をしたい、もっと幸せになりたいと思うほど、願いと現実の隔たりに苦しむ人間の滑稽さが浮かびます。目的だったはずの幸福を、追いかけ方そのものが遠ざける。この逆転が言葉の面白さです。
例えば、休日を満喫しようと予定を詰め込みすぎて疲れてしまうことがあります。休むための一日が達成すべきタスクの集まりになる。そんなとき、この歌は「その忙しさは何のためだったのか」と問いかけているようにも読めます。問題にしているのは幸福の願い自体ではなく、その追い求め方でしょう。
一方、「世の中に苦はなきものを」を、現実の苦痛は存在しないという主張にしてしまうのは危険です。病気や困窮、差別、災害による困難は、気の持ちようだけで消えるものではありません。歌の誇張や皮肉を、苦しんでいる人を責める命令へ変えてはいけません。
現代の生活へ持ち込む際の境界線
欲しい物を手に入れた直後に、次の欲しい物が現れることがあります。仕事の評価でも、昇進した途端に他の人の成果が気になるかもしれません。こうした場面では、追い求めているものが本当に自分の望みなのかを見直すきっかけになります。
とはいえ、収入を増やそうとすること、快適な環境を求めること、困難な状況から抜け出そうとすることを否定する必要はありません。生きるために不可欠な条件と、比較によって膨らむ願望は同じではないからです。どちらも「執着」とひとまとめにすれば、生活上の問題を見落とします。
実践の仕方は大げさでなくてもよいでしょう。予定を入れる前に本当に休みたいのか確かめる、買い物の前に必要な物か考える、周囲に合わせた目標を一度見直す。自分の望みを吟味する小さな余白が、この歌から引き出せる現代的なヒントです。
まとめ――作品の面白さと作者帰属を区別する
「世の中に苦はなきものを、我とわが楽を求めて苦しみぞする」は、大田南畝・蜀山人の歌として流通しています。南畝が機知に富む狂歌で知られる文人だったことは資料で確認できますが、この歌の初出や原典における作者表示は今回確認できませんでした。
国文学研究資料館は、南畝の名が表示された後世の歌集でも作品の作者を慎重に見極める必要があると指摘しています。ただし、その議論をこの歌の真偽へ直接当てはめることはできません。出典状態は「要検証」とし、帰属の断定を避けます。
歌そのものからは、幸福を求めるうちに目的と手段が逆転する可笑しさを読み取れます。その解釈を生き方の参考にするのは自由ですが、文学の誇張を絶対的な人生法則に変えず、実際の苦痛にも目を向けることが大切です。

資料と確認範囲:国文学研究資料館「狂歌百人一首」(蜀山人名義と実際の作者を分ける研究上の注意)、コトバンク「大田南畝」(経歴・代表作)、蜀山人名言の流通例(二次引用)。今回の歌の原典・巻・頁・成立年は未確認。幸福と欲望のテーマページ、出典状態の読み方も参照してください。