はじめに
「日本人ほど『ありがとう』という言葉を口にしない民族はそうそういませんね」。大橋巨泉の言葉として紹介される一節は、日常の感謝の伝え方を考えるきっかけになる。だが、日本人がほかの国の人より感謝を言葉にしないという比較結果として、そのまま受け取ってよいのだろうか。
文化庁が2025年に公表した国語世論調査には、この一文を考え直すための具体的な数字がある。配達を終えた人へ何を言うことが最も多いか尋ねると、70.0%が「ありがとう(ございました)」を選んだ。もちろん、ある場面の回答を外国との比較に使うことはできないが、日本人全体を一括して「言わない」と扱うのは難しい。
さらに日本語では、感謝の気持ちを「すみません」や「どうも」と表す場合もある。単語が聞こえるかどうかと、感謝が伝わっているかどうかは同じではない。元の発言の初出と、確かめられる言語の実態を分けて考えたい。
引用は流通しているが、番組名は分からない
名言ナビはこの言葉を大橋巨泉の発言として載せ、「あるテレビ番組での発言」と注記している。また2016年7月20日の『grape』も、巨泉の名言の一つとして掲載した。少なくとも本人の没年ごろにはこの文章が流通していたことが確認できる。
しかし、番組のタイトル、放送日、実際の映像や字幕は今回の調査で特定できなかった。紹介サイトに書かれた言葉を、本人の肉声を直接照合した記録のように扱うことはできない。引用の帰属と逐語的な原典は「要検証」としている。
発言が実際にあったとしても、それはある時点での巨泉の経験や印象を表したものだろう。一人の人物の鋭い観察と、国民全体の習慣を測った統計は別の証拠として扱わなければならない。
文化庁の調査では「ありがとう」が最多だった
文化庁の令和6年度「国語に関する世論調査」は、2025年1月から3月に郵送方式で実施された。全国16歳以上の人を対象とし、有効回答は3,498件だった。特定の場面を示して回答者が使う表現を尋ねた調査であり、全国民の発話を録音した調査ではない。
注文品を届けに来た配達人が仕事を終えたときに何を言うことが最も多いか、という質問では「ありがとう(ございました)」が70.0%だった。次いで「御苦労様(でした)」19.7%、「お疲れ様(でした)」4.5%、「どうも」2.6%である。少なくとも、この場面では「ありがとう」が最も選ばれた。
過去の2005年度や2015年度の参考値も公表されているが、調査方法が以前の面接方式から郵送方式へ変わっており、単純比較には注意が必要だ。年代や状況による違いを無視して、日本人全体が変わったとも変わらないとも即断しないようにしたい。
「すみません」にも感謝が含まれる
国立国語研究所の「ことば研究館」は、相手に助けてもらった際に「ありがとう」の代わりに「すみません」と言う場面を紹介している。これは、相手が自分のために手間をかけたことへの恐縮を示す場合があるからだ。日本語では謝罪の形を借りて感謝が伝えられることもある。
同研究所の熊谷智子による解説では、会社で同僚がお茶を出してくれた場面を例に、相手との関係によって「ありがとう」と「すみません」を使い分ける回答があったと紹介されている。選ぶ言葉には親しさ、場面、相手への配慮が関わる。
ただし、「すみません」と言えばいつでも感謝が伝わると決まっているわけではない。相手が期待する表現も、その場の理解も異なる。何を言ったかだけでなく、どう受け取られたかを考える必要がある。
国際比較に必要な情報とは
日本人がほかの国の人より「ありがとう」を言わないかどうかを検証するには、同じような場面で、同じ基準で比較した調査が必要になる。どの国の、どの地域の、誰を対象にするかを明確にしなければならない。自分が旅行で出会った人の印象だけでは国全体を説明できない。
また、言語が違えば感謝を示す表現の範囲も違うかもしれない。言葉以外の態度もあるし、同じ言葉でも使い方が変わる。単語の登場回数だけで「感謝の深さ」まで測ることはできない。
巨泉が海外で暮らし、複数の文化に触れた経験を持つことは本人取材で確かめられる。しかし、それによってこの比較発言が統計的な事実になるわけではない。経験に基づく批評は、読者が問いを持つ入口として読むのがよいだろう。
まとめ・出典状態
大橋巨泉の「日本人はありがとうを言わない」という言葉には、日常の感謝表現を見直すきっかけがある。しかし番組の一次記録を特定できず、国民性についての比較データも確認できないため、引用の出典状態は「要検証」とした。
文化庁の調査では、配達員へかける言葉として「ありがとう」が最多の70.0%だった。国立国語研究所の資料は「すみません」に感謝の意味が含まれる場合も説明している。私たちが見直したいのは、国民をひとまとめに評価することより、身近な相手へ何を伝えたいかという問いである。
資料:名言ナビ(発言の流通と「テレビ番組」の出典表示)/grape・2016年の名言紹介/文化庁『令和6年度 国語に関する世論調査』報告書、44頁(配達人への言葉)/国立国語研究所「ありがとう」と「すみません」/国立国語研究所「どうも」の解説。関連記事:巨泉が語った海外生活と準備。出典ステータスの読み方。
