「私たちの細胞は互いに話していることを私たちは知っています」。オノ・ヨーコの言葉として紹介される表現です。生物学では、実際に細胞がさまざまなシグナルを使って情報を伝え合うことが知られています。ただし、科学的に確認された現象があることと、その説明をオノ本人がいつ語ったかを確認できることは別です。
今回、英語では「We know that our cells are speaking to each other.」という一文が引用サイトで流通していることを確認しました。しかし、本人の録音、著書、作品、インタビューなど、発言の原典は見つかっていません。そこで本稿では、まず引用の確認状態を明確にし、そのうえで細胞のコミュニケーションという科学的な現象を独立して説明します。
言葉の出典はどこまで確認できるか
英語の名言サイトBrainyQuoteは、この文章をオノ・ヨーコの名言として掲載しています。別の引用サイトにも同一文が載っているため、英語圏で一定程度流通していることは分かります。
引用の出典を整理する別のページでもこの文章を取り上げていますが、原典については信頼できる資料が見つからないと明記しています。複数のサイトに掲載されているという事実から、本人が発したという結論へ直行することはできません。
元の言葉が科学についての直接的な発言なのか、芸術や人間関係についての比喩だったのかも不明です。質問者や前後の文脈が分からない段階で、オノが特定の医学的・哲学的な立場を表明したと断定してはいけません。
科学の世界では、細胞の「会話」とは何を指すか
米国国立医学図書館のNCBI Bookshelfで公開されている生物学教科書『Molecular Biology of the Cell』第15章では、細胞間のコミュニケーションは多細胞生物がそれぞれの細胞の働きを調整するために不可欠だと説明されています。
細胞は音声や言葉をやり取りしているわけではありません。ある細胞が出した物質を、別の細胞が受け取り、その細胞の内部で反応が起こる。あるいは隣り合う細胞の表面が接触し、情報が伝わる。こうした仕組みをまとめて細胞間シグナル伝達と呼びます。
「話している」という表現は、その複雑な仕組みを身近に感じるための比喩です。声や人格があることを示すのではなく、情報が生物学的な形でやり取りされるという意味で使います。
情報を受け取るには「受容体」が必要
細胞から放出されたシグナル分子は、別の細胞へ届いただけで必ず同じ反応を起こすわけではありません。受け手側に、その分子を認識する受容体があることが重要です。
細胞間シグナル伝達をまとめた学術レビュー『Signals and Receptors』では、タンパク質、ペプチド、脂質、ステロイドなどさまざまな分子が、細胞表面や内部の受容体へ結合して細胞の働きを変える仕組みが説明されています。
細胞の種類によって持つ受容体や内部の経路が異なるため、同じ物質が来ても反応の仕方は同じとは限りません。言葉のやり取りと似ているのは、発信する仕組みだけでなく、受け取って解釈する仕組みも必要になるという限定した点です。
隣り合う細胞が直接情報を伝える
NCBI Bookshelf「Physiology, Cellular Receptors」(2024年更新)によると、隣接した細胞同士が直接接触して情報を伝えたり、ギャップ結合という構造を通して小さな分子などをやり取りしたりする仕組みがあります。
このような伝達は、細胞の間に距離があるときの化学的なシグナルとは異なります。体内の情報の伝え方には一つだけの方法があるわけではありません。
直接接触する場合と、いったん周囲の空間へ物質を出す場合では、情報が届く距離やタイミング、影響を受ける細胞の範囲が変わります。
遠くの細胞にも届く情報
ホルモンのように、血流を介して遠くの細胞や組織へ届く物質もあります。神経細胞は電気的な活動と神経伝達物質を組み合わせ、離れた細胞に素早く情報を伝えます。
局所の細胞へ働きかけるパラクリンシグナル、分泌した細胞自身にも働きかけるオートクリンシグナル、遠くに届く内分泌シグナルなど、範囲によって分類される仕組みもあります。
ただし、これらの分類は複雑な生命現象を説明するための整理です。すべての物質が一つの経路でしか働かないという意味ではありません。
細胞の情報交換が関わる身体の働き
多細胞生物では、細胞がいつ増殖し、どこへ動き、どのような種類へ分化するかを調整する必要があります。細胞の間の情報の伝達は、身体の発生、成長、組織の維持などに関わっています。
こうした通信がうまく働かなくなることは、さまざまな病気の原因や進行と関係する場合があります。しかし、特定の症状が起きたとき、その原因が特定の細胞通信の異常だと一般論だけから決めることはできません。医療上の判断には個別の検査や専門家の評価が必要です。
この説明は科学文献から確かめたものであり、オノ・ヨーコが医学研究の結果を発表したという意味ではありません。
人と人とのつながりへ、そのまま置き換えてよいか
細胞の間で物質が伝わるという事実を、人間の気持ちや人間関係へたとえることはできます。たとえば、伝える側だけでなく、受け取る側の状態によって反応が変わるという比喩は、コミュニケーションを考える助けになるかもしれません。
しかし、細胞間シグナル伝達があることから、人同士の感情が見えない力で直接伝わるとか、心で願うだけで病気が治るといった主張を科学的に証明したことにはなりません。生物学で研究されている機序と、哲学的・精神的な考えは分けて扱う必要があります。
オノ・ヨーコの作品における「関係」
2001年11月のハンス・ウルリッヒ・オブリストによる本人インタビューでは、オノが観客に指示を与え、観客自身の想像や行動を通じて作品を変化させるという方法を詳しく語っています。
MoMAの2010年の記事にも、観客が願いを書いた紙を木に結びつける《Wish Tree》などの参加型作品が紹介されています。誰かが何かを示し、別の人が応じるという関係が作品を形づくる例です。
ただし、これらの作品やインタビューから、今回の「細胞は話している」という引用の出典を証明することはできません。オノの作品で確認できる参加の思想と、出典未特定の一文は別の情報として紹介しています。
比喩は、分かりやすさと誤解の両方を生む
細胞が会話している、という言い方は、体内の複雑な仕組みを直感的に説明するのに役立ちます。しかし、細胞が自分の意思で言葉を選び、相手の感情を理解しているように考えると、科学の説明とは違う意味になってしまいます。
科学的な説明と芸術的な比喩は、同じ言葉を使っていても目指すものが異なります。前者は観測や実験によって仕組みを確かめ、後者は体験や想像を通してものの見方を広げることがあります。
どちらにも価値はありますが、境界を曖昧にしたまま証拠として使うべきではありません。
旧記事からの変更と出典判定
旧記事では「細胞がコミュニケーションする」という科学的な現象をオノ本人の芸術哲学と直接結びつけ、引用の根拠を示していませんでした。今回、まず引用原典が未確認であることを明示し、科学的に裏づけのある仕組みを別の資料で説明しました。
出典状態:オノ・ヨーコ本人の当該発言は要検証。確認できた英語流通例は① BrainyQuoteの引用ページ、② 引用の出典調査ページです。どちらも本人の同時代の逐語資料ではありません。
細胞の生物学についての確認資料:③ NCBI Bookshelf『Molecular Biology of the Cell』第15章、④ 学術レビュー『Signals and Receptors』、⑤ NCBI Bookshelf「Physiology, Cellular Receptors」。オノの芸術活動との関係を考える別資料として、⑥ オブリスト本人取材、⑦ MoMAの参加型作品紹介を参照しました。
本人の引用を確定する追加資料が見つかれば訂正できるよう、現段階での確認範囲を明示しています。出典監査のルールは出典監査索引にあります。
