「学問と云うものは全く世界的なもので国境が御座いませぬ。」という北里柴三郎の言葉は、単なる「国際交流を大切にしよう」という呼びかけだけでなく、異なる国で培われた研究と師弟関係が、科学を前に進めてきた歴史と重なります。この言葉が紹介された場面と、北里が何を実践したのかを分けて見ていきます。
出典の手掛かり:1917年のコッホ記念講演会
東京都港区で文化・スポーツ事業などを担うキスポート財団の人物紹介「港区の偉人・北里柴三郎」は、この言葉を1917年の「コッホ記念講演会」開会の辞として紹介しています。ここまで具体的に発言の行事と年が示されています。
ただし、今回参照したのは後年の人物紹介であり、1917年の講演会の原稿・当時の雑誌掲載本文そのものを確認したわけではありません。したがって、発言年と行事の特定は二次資料で確認、句読点・表記を含む逐語原典は未照合とします。
北里とローベルト・コッホのつながり
北里はドイツ留学中、ローベルト・コッホの研究室で細菌学を学びました。学校法人北里研究所の沿革によると、帰国後の1892年には福沢諭吉らの支援を得て私立伝染病研究所を設立し、1914年には北里研究所を創立しました。翌1915年の開所式は、コッホの誕生日に合わせて開かれています。
こうした歴史からも、北里が科学を特定の国家の内部だけで完結する営みと考えていなかったことをうかがえます。ただし、「国境を越える研究」と「研究成果を無制限に公開すること」や「国の制度が不要ということ」は同義ではありません。短い一節を、現代の政策論へそのまま結びつけるのは慎重であるべきでしょう。
科学が国境を越えるとは、何が共通することか
感染症の病原体や感染経路は、政治的な国境に合わせて性質を変えるものではありません。観察、実験、検証を積み重ねれば、異なる国の研究者たちもその結果を確かめ、議論し、次の研究へ進むことができます。
一方、研究には資金、制度、言語、設備、教育機会の違いがあります。知識の対象が国境を越えることと、研究を行う条件がどこでも平等であることは別です。この違いを意識すると、「学問に国境はない」という標語を美談で終わらせず、研究の機会を支える社会的な仕組みまで考えることができます。
研究の国際性と、研究を育てる国内基盤
北里研究所の沿革には、伝染病研究所の設立から、新たな研究組織の整備までが記されています。また、北里大学北里研究所病院の紹介では、弟子たちへの指導や研究成果の継承にも光が当てられています。国際的な科学の進展は、個々の研究者が活動できる場所と、次の世代へ技術を渡す仕組みにも支えられます。
だからこそ、世界の科学に参加することと、地域や国内に研究拠点を築くことを対立させる必要はありません。どちらも科学の蓄積に必要となる場合があります。
国境を越える協力の現代的な意味
感染症の監視や基礎研究では、異なる地域の情報を比較することが役立ちます。ただし、人々の健康情報を共有する際には、個人情報の保護、研究倫理、安全性、関係法令への配慮も欠かせません。北里の言葉を引用する際に、現代の情報管理上の責任まで無視してよいとするのは正しくありません。
仕事や学習の場でも、別の国・専門分野の研究や実践を理解し、自分の前提を相対化することはできます。しかし、成功事例をそのまま移植するより、どんな条件の下で結果が出たのかを調べる姿勢が重要です。これは本サイトによる現在への応用であり、北里本人が国際的なデータ活用の方法を説いたという意味ではありません。
まとめ:知識の普遍性と、研究する場の責任
「学問には国境がない」という一節は、キスポート財団の資料では1917年コッホ記念講演会の開会挨拶に位置づけられています。原誌面の校合は残っていますが、北里がコッホのもとで学び、日本に研究組織を築き、人材を育てたことは北里研究所の公式沿革で確認できます。科学は国境を越えて検証される。そのための人・場・責任を育てることも必要。二つを一緒に考える言葉として読みたいところです。

主要出典・関連資料
・キスポート財団「港区の偉人・北里柴三郎」:当該一節を1917年コッホ記念講演会「開会の辞」として紹介。
・学校法人北里研究所「北里研究所の誕生」:帰国後の研究組織整備とコッホとの関係。
・北里柴三郎記念室「北里柴三郎の生涯」:年表と1914〜1917年の関連事項。
・北里大学北里研究所病院「北里精神の原点」:研究と後進育成について。
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