孤軍奮闘するあなたへ:なぜ「ターゲット」は広がり続けるのか
ひとりマーケターとして奔走するあなたが、最も疲弊するのは「リソースの枯渇」ではなく「方針のブレ」による徒労感ではないでしょうか。社内の期待を背負い、少しでも多くのリードを獲得しようとするあまり、ターゲットの定義が曖昧になっていく現象は、多くの組織で繰り返される悲劇です。
社長からは「この業界も狙える」、営業からは「あのお客様も反応が良かった」と言われ、ターゲットリストだけが肥大化していく。しかし、その裏にあるのは「機会損失への恐怖」です。「絞り込むことで、売上を取りこぼすのではないか」という不安が、組織全体を「あれもこれも」という思考停止に陥らせています。
しかし、リソースが限られた中小・ベンチャー企業において、全方位外交は戦略ではなく「自滅行為」です。あなたが今必要としているのは、闇雲に手を広げることではなく、リソースを一点に集中させ、岩盤を突き破るためのドリルとしての「鋭さ」です。ここでは、プロフェッショナルとして組織を説得し、成果を出すために必要な「捨てる基準」について、マーケティングの原理原則から紐解いていきます。
「誰でもいい」は「誰も買わない」と同義である:マーケティングの物理学
物理法則と同様、マーケティングにおいても「力(リソース)× 面積(ターゲットの広さ)= 圧力(市場へのインパクト)」の関係が成り立ちます。限られたリソースを広範囲に薄く広げれば、市場に与える圧力は限りなくゼロに近づきます。
B2Bマーケティングにおいて、顧客が購買に至るまでには「認知」「興味」「比較検討」「決裁」という高い壁をいくつも超える必要があります。これらを突破するには、顧客の課題に深く突き刺さる強烈なメッセージと、適切なタイミングでのフォローアップが不可欠です。
ターゲットを広げるということは、メッセージを「無難」にし、誰の心にも響かないものに薄めることを意味します。「業務効率化」や「売上アップ」といった抽象的な言葉が並ぶウェブサイトや資料は、その典型です。これらは誰にでも当てはまるようでいて、実は誰の切実な痛みも解決していません。「誰でもいい」というスタンスは、顧客から見れば「私に向けられたものではない」と判断される最大の要因なのです。
勇気ある撤退戦のための「捨てる基準」:3つのフィルター
ターゲットを捨てることは、顧客を無視することではありません。「今は対応しない」と意思決定する投資判断です。では、何を基準に捨てるべきか。私がプロジェクトで用いる3つのフィルターを紹介します。
1. 「切実な痛み(Must)」か「あったらいいな(Nice to have)」か
最も優先して捨てるべきは、「あったらいいな」レベルの課題しか持っていない層です。たとえ市場規模が大きくても、課題解決の緊急度が低い層は、検討期間が長く、失注リスクが高まります。「今すぐ解決しなければ、経営にダメージがある」あるいは「担当者の評価が下がる」といった、切実な痛みを持つ層以外は、勇気を持ってリストから除外してください。
2. 勝ち筋のある「競合優位性」が発揮できるか
かつて私が担当したSaaSプロジェクトでの失敗談です。「機能的には大手企業にも対応できる」という理由でエンタープライズ層をターゲットに加えました。しかし、彼らが求めていたのは機能ではなく「導入支援の人的リソース」や「組織的な信用の担保」でした。結果、リードは取れても商談で競合大手に負け続け、営業チームを疲弊させてしまいました。自社の強み(スピード、価格、柔軟性など)が、相手の選定基準(KBF)と合致しない領域は、どんなに魅力的でも捨てるべき戦場です。
3. LTV(顧客生涯価値)とCAC(顧客獲得コスト)の経済合理性
獲得コストがかかる割に、LTVが低い顧客層も捨てる対象です。特にひとりマーケターの場合、手間のかかる顧客(カスタマイズ要求が強い、リテラシー教育が必要など)は、その後のCS(カスタマーサクセス)のリソースをも圧迫します。「売上にはなるが、利益と時間を食いつぶす顧客」を定義し、あえてターゲットから外すことは、事業の継続性を守るための英断です。
現代における「絞り込み」の技術:AIとデータが教えてくれる真実
「捨てる」という決断を裏付けるために、現代には強力な武器があります。AIやデータを活用することで、勘や度胸ではなく、客観的な根拠を持ってターゲットを絞り込むことが可能です。
CRMやSFAに入っている過去の受注データ、失注データをAIに分析させてみてください。「成約までの期間が短い顧客」「解約率が低い顧客」には、必ず共通の属性や行動パターン(特定の業界、企業規模、決裁者の部署など)が存在します。ChatGPT等のLLMを活用し、既存の優良顧客のインタビューログや商談メモを読み込ませ、「彼らが抱えていた真の課題は何か?」を抽出させるのも有効です。
AIは「ターゲットを広げる」ためだけでなく、「勝率の高いセグメントを発見し、それ以外を捨てる根拠を作る」ためにこそ使うべきです。「データによると、このセグメント以外へのアプローチはROIが著しく低い」という事実は、社長や営業を説得する最強のカードになります。
社内政治を突破する:「絞り込み」を合意形成するための対話術
論理的に正しくても、感情的な「機会損失への恐怖」を持つ社内を説得できなければ、ひとりマーケターの戦略は実行できません。ここで必要なのは「No」ではなく「Not yet」のコミュニケーションです。
経営層や営業に対して「このターゲットは捨てます」と伝えると反発を招きます。そうではなく、「まずはこの『ボーリングの1番ピン(センターピン)』を倒すことに集中させてください。ここが倒れれば、その背後にあるターゲットもドミノ倒し式に攻略できます」と伝えてください。これは「ビーチヘッド(上陸拠点)戦略」と呼ばれるものです。
全てを同時に攻めるのではなく、リソースを集中して小さな成功体験(勝ちパターン)を一つ作る。その実績をテコにして、次のターゲットへ広げていく。「捨てる」のではなく「順番をつける」という見せ方をすることで、組織の納得感を得ながら、実質的なリソース集中を実現することができます。
まとめ:マーケターとは「選ぶ」仕事である
マーケティングにおいて最も知性が問われるのは「何をするか」ではなく「何をしないか」を決める瞬間です。
ターゲットを絞り込むことへの恐怖は、プロフェッショナルとして成長するための通過儀礼のようなものです。「あれもこれも」と迷うことは、誰にでもできます。しかし、限られたリソースの中で最大の成果を出すために、痛みを伴う「捨てる」決断を下せるのは、マーケティングを司るあなたしかいません。
「捨てる基準」を持つことは、あなたの仕事を楽にするためではなく、あなたの会社が市場で独自の地位を築き、顧客から選ばれる存在になるための唯一の道です。明日からの会議で、勇気を持って「今は、ここには注力しません」と発言してみてください。その一言が、組織を成功へと導く第一歩となるはずです。