はじめに――「Make Good Art」は万能な励ましなのか
何をしてもうまくいかないとき、創作に向かうことは役に立つのでしょうか。作家ニール・ゲイマンは2012年の芸術大学卒業式で、困難なときにも作品をつくるよう卒業生へ語りました。短い決めぜりふだけを聞くと、何事も創作で解決できると受け取るかもしれません。
英語の表現は「Make good art」。当サイトでは「良い作品を作れ」と説明します。ここでいう「良い」とは、他人に必ず称賛される作品を作れという保証ではなく、自分が誇れる仕事に向き合うこととして読むと、演説全体とのつながりが見えます。
2012年5月17日、米国フィラデルフィアにあったUniversity of the Artsでの卒業式講話です。ゲイマン自身が当時の公式公開映像をブログから案内しており、講話の存在と原映像の公開元を確認できます。発言と後世の要約を区別し、本人が語った仕事の経験に沿って読み進めます。
学校を出てすぐ、書く仕事を始めた経験
ゲイマンは大学を卒業していないことを明かし、若い頃から物語を書く仕事を目指していたと語りました。まず記者の仕事で文章を磨きながら、漫画や小説を書く目標へ近づこうとしたそうです。理想の肩書を待つのではなく、目標につながる実践を積んだという経験です。
演説では、なりたい場所を遠くの山にたとえる話も出てきます。選択を迷ったら、その山に近づく方向か離れる方向かを考えるという考え方です。仕事の一つひとつを最終目標と同一視せず、進みたい方向との関係で判断するという助言になります。
ただし、進みたい方向が見えない人には、この比喩が重荷になることもあります。生活費や家族への責任があれば、遠回りの仕事にも意味があります。理想へ一直線に進まないと失格だという意味ではなく、目標と現実の間を考えるための目印として使うのがよいでしょう。
失敗だけでなく「成功の問題」もある
ゲイマンは作品が読まれない不安や、仕事の依頼が来ないつらさを語りました。フリーランスの仕事は、海に瓶を流して返事を待つようなものだという比喩も登場します。努力しても評価が返ってこない時期があることを、創作の現実として認めています。
意外なのは、成功にも別の難しさがあると述べた点です。作品が評価されるようになると、メールへの返信や周囲の期待に追われ、肝心の書く時間が減ってしまったと振り返ります。成功した結果、本来やりたかった仕事から遠ざかることさえあるという皮肉です。
だからこそ、評価や依頼の数だけで自分の仕事を測らない工夫が必要になります。仕事として引き受けるべきことを整理しながら、制作そのものの時間を守る。創作を続けるためには、作品をつくる前の時間の設計も重要なのです。
「失敗をしてよい」と「無責任でよい」は違う
演説では、間違いを恐れず作品をつくるよう勧めています。ゲイマンは自分のつづり間違いから『コラライン』という名前を思いついた例を挙げました。失敗から別の発想が生まれることがあるという話です。
しかし、すべての失敗に価値があるわけではありません。人を傷つけたり、約束を破ったりする行動まで創作の名で正当化はできません。演説には職業上の経験談として、若い頃の自分の経歴の説明が不正確だったと明かす箇所もあります。その逸話を模倣すべきキャリア術として紹介するのは適切ではないでしょう。
創作で試せることと、他者への責任を伴うことを分けて考える必要があります。自分の作品の中で大胆に試行錯誤し、外部へ公開する際には権利や契約を確かめる。挑戦する自由と、制作物への責任は同時に成り立ちます。
自分の声を見つけるには
演説の中でゲイマンは、最初に誰かの真似をすること自体は珍しくないと話します。しかし、最後には自分にしかない声や視点を形にすることが重要だと勧めました。好きな作品から学ぶことと、別の人の作品をそのまま自分のものとして出すことは違います。
例えば、文章の書き方を学ぶなら、複数の作家がどんな問いを立てているかを研究できます。そのうえで、自分が実際に経験したことや、ほかの人が見落としている問題を見つけて表現する。独自性は奇抜な言葉を並べることではなく、自分なりの観察から生まれます。
初心者の挑戦という点では、ナタリー・ポートマンが未経験の価値を語った講話も参考になります。ジェリー・サインフェルドのユーモアと仕事の演説は、小さなものに注意を向ける姿勢を補ってくれます。別の分野の表現者と読み比べると、創作の方法が一つではないと分かります。
まとめ――良い作品は、生活から切り離せない
「良い作品を作れ」という言葉は、落ち込んでいる人へ無理に働けと命じるものではありません。自分が表現したいことを、他人の評価だけで手放さないための言葉として受け取ることができます。休息や生活を守ることも、長く制作するうえでは大切です。
ゲイマンの演説には、失敗から学ぶこと、成功で忙しくなりすぎないこと、自分の声を育てることなど、複数の話題が含まれます。短い名言にすべてを詰め込まず、作品をつくり続けるための具体的な工夫に変えることが有益です。
原典への入口は、ゲイマン本人の2012年6月3日のブログと、そこから案内された当時の卒業式演説映像です。話の流れは公開された文字起こしで補助的に確認しました。作者本人による原映像への案内と第三者の文字起こしを区別し、本文は独自の日本語解説にとどめています。