はじめに――受賞スピーチを締めくくった二つの単語
華やかな授賞式で、受賞者が最後に述べた短い言葉が業界の働き方を問い直すきっかけになることがあります。俳優フランシス・マクドーマンドは2018年のアカデミー賞主演女優賞を受けた際、映画制作の機会を広げる仕組みを紹介しました。
結びの言葉は「inclusion rider」。日本語では「包摂を促す契約の追加条項」という意味合いです。単なる励ましのスローガンではなく、映画をつくる際に誰へ仕事の機会を開くかという具体的な仕組みを指していました。
発言は2018年3月4日の第90回アカデミー賞授賞式です。放送元のABCが受賞スピーチ全文を公開し、アカデミーの公式映像も残されています。本人が言ったことと、その仕組みの開発に携わった人々の説明を分けて確認します。
2018年の受賞と「立ち上がってほしい」の意味
マクドーマンドは映画『スリー・ビルボード』で主演女優賞を受賞しました。スピーチではまず作品の関係者に感謝し、その後、会場にいる女性の候補者へ立ち上がるよう呼びかけました。出演者だけでなく、監督、脚本家、撮影監督、作曲家など幅広い職種を挙げたことが特徴です。
そして、会場の人々へ、その女性たちには語るべき物語があり、資金を必要とする企画もあると伝えました。授賞式の場で褒めるだけでなく、数日後には仕事の打ち合わせの場を用意してほしいという趣旨でした。拍手や共感の表明から、実際の商談や制作機会へ話を移したのです。
ただし、この訴えだけで業界の機会の格差が解消したわけではありません。また、受賞者の立場が強いからこそできた発言でもあります。本人の影響力を評価しながら、誰もが同じ交渉力を持っているわけではないという条件にも注意したいところです。
インクルージョン・ライダーとは何か
映画や番組を制作する際、出演契約などに条件を追加することがあります。インクルージョン・ライダーは、作品の配役やスタッフの採用過程で、多様な背景の人々が候補として検討される機会を増やすための契約条項の枠組みです。契約の力を利用し、意思決定の入口を広げようとする試みといえます。
USCアネンバーグ校の説明によると、研究者ステイシー・L・スミスが2014年に発想を示し、法律家カルパナ・コタガルや制作者ファンシェン・コックスらと具体的な文書づくりに取り組みました。マクドーマンドがこの制度そのものを一人で発明したわけではありません。
また、後に公開されたひな型は、そのままコピーしてあらゆる契約へ使うための完成済み書式ではないと説明されています。作品の性質や法制度、当事者の合意に応じて検討するものです。特定の属性の採用を無条件に義務づける魔法の条項と誤解せず、機会を広げるための制度設計として理解する必要があります。
「多様性」は人数だけで決まるのか
多くの人を起用したという数字は、改善を検討するための一つの資料になります。しかし、応募の段階で仕事の情報が届いていないなら、選考の公平性を人数だけで評価することは難しいでしょう。誰が候補へ入れるのか、誰が面接を受けられるのか、どのように採否を判断するのかを分けて考える必要があります。
マクドーマンドが呼びかけたのは、目の前の候補者たちと制作の企画について話す機会を実際につくることでした。これは、能力の検討を省こうという提案ではありません。能力を確かめる機会そのものが偏っていないかを確認するという問いです。
もちろん、作品の表現意図や予算、法的な条件など、制作上の制約もあります。多様性を一つの数値だけで機械的に判断することには限界があるでしょう。目標を立てるだけでなく、決定の過程と結果を点検し続けることが重要になります。
仕事の現場で「機会を開く」を実践するには
映画以外の分野でも、仕事を任せる相手をいつも同じ人に限定していないか見直せます。新しい企画を立ち上げる際、いつもの知り合いだけで候補を決めてしまえば、経験や能力のある人を見落とすかもしれません。人材を探す経路を増やし、誰が応募できるのかを明確にすることが出発点です。
次に、選考の基準と必要な経験を確認します。人によって基準を変えていないか、最初の経験を積む機会を誰が得ているかを考えます。成果を公平に比較するためには、成果を示せる場所があるかも確認する必要があります。
他者の挑戦を支えるという点ではミスター・ロジャースが他人の前進を助けることを語った演説、個人の意欲を考えるならミンディ・カリングの「Why not me?」も関連します。自分で挑戦する勇気と、他人に挑戦の機会を開く仕組みは、別の側面から社会を支えます。
まとめ――拍手から具体的な機会へ
フランシス・マクドーマンドの2018年受賞スピーチで重要なのは、「インクルージョン・ライダー」という専門的な言葉を広く紹介したことです。才能を褒めるだけではなく、実際に企画を聞き、仕事の機会を用意する行動へつなげようと呼びかけました。
その仕組みは、関係者が合意し、実際の採用過程や成果を点検して初めて意味を持ちます。制度を導入しただけで問題が解決したと決めつけることもできません。理念を行動へ移すには、具体的な仕組みと継続的な検証が必要なのです。
一次資料はABCが公開した2018年の受賞スピーチ全文とUSCアネンバーグ校による契約条項の説明、同校の制度設計資料です。引用は短い二単語のみとし、原文全文や既存の訳文、契約書の文面は転載していません。