はじめに――飼い犬バックは最後にどうなるのか
暖かい家で大切に育てられた犬が、ある日突然連れ去られ、雪と氷の土地でそりを引くことになる。ジャック・ロンドンの『野性の呼び声』は、犬バックが過酷な環境を生き抜く物語です。しかし、結末は人間の家へ戻るという単純な帰還ではありません。
バックは厳しいそり犬の暮らしを経験したあと、ジョン・ソーントンという人物に助けられます。二人には深い結びつきが生まれますが、最後の事件を経てバックはオオカミの群れへ向かうことになります。
本記事は英語原作『The Call of the Wild』全7章と、ユタ州立大学図書館が所蔵する1903年刊本の書誌を直接確認して作成しました。なぜバックが連れ去られ、どのように生き残り、最後に何を選んだのかを原作に沿って整理します。
1903年の原作はどのような作品か
『The Call of the Wild』は1903年、米国で刊行されたジャック・ロンドンの小説です。ユタ州立大学の特別資料コレクションには、同年7月刊行のMacmillan社による初版本が所蔵されています。1903年という年は後年の映画化や翻訳の刊行年ではなく、原作の初期刊本を示します。
原作は全7章で、冒頭は飼い犬としてのバックを描き、最後の章で彼が「呼び声」に応じるところまで進みます。犬の視点へ寄り添いながら、人間社会と動物の生存の厳しさを描いている点が特徴です。
著者ロンドンは1916年に亡くなっているため、原作本文の日本における著作権保護期間は満了しています。しかし、近年の日本語訳、映画脚本や後年の挿絵は独自に保護される場合があります。本記事は1903年の英語原作を独自に要約し、現代訳や画像を転載しません。
カリフォルニアの家から奪われたバック
物語の冒頭で、バックはカリフォルニアのミラー判事の広い屋敷に住んでいます。家族と一緒に暮らし、庭や家の中を自由に行き来できる犬でした。雪の中で生きる訓練を受けたそり犬として生まれたわけではありません。
金を求めて北へ向かう人が増え、強い犬への需要が高まると、屋敷で働く男がバックを売り渡してしまいます。バックは元の暮らしから切り離され、人間に拘束されて遠くへ運ばれます。自分の意志で冒険に出たというより、人間の利益のために運命を変えられたのです。
連れ去られた先では、棒を持つ人間から暴力を受け、抵抗しても勝てないことを知ります。人間の命令へ従うことを、安心できる家庭の中で学んだときとは全く異なる形で思い知らされる場面です。
雪原で学んだ「棍棒と牙の法則」
北の土地でバックは、フランソワとペローの率いるそり犬の一員になります。そこで初めて、寒い夜を雪に穴を掘ってしのぐことや、仲間の犬との関係を学びます。家での常識が通用しない場所で、生き延びるための行動が必要になります。
原作では、仲間の犬が争いで命を落とすなど、容赦のない出来事が起こります。バックはそのような環境を通じて、作中で「棍棒と牙の法則」と呼ばれる厳しい力関係を理解していきます。動物の暴力を美しいものとして描くのではなく、置かれた環境の過酷さを示す展開です。
バックは経験を積み、犬ぞりを引く技術や仲間との距離の取り方を身につけていきます。一方、厳しい暮らしで能力が伸びたという事実と、その苦しみが本人に必要だったという評価は別です。
スピッツとの争いとリーダーになるまで
そり犬の集団では、スピッツという犬が中心的な地位にいました。バックは彼と競い合うようになり、緊張が高まります。犬の群れの中での立場が、日々の仕事や身の安全にも関わるためです。
ついに両者は激しく争い、バックが勝ちます。仲間の犬たちの関係も変わり、バックは先頭を引く犬として認められるようになります。能力や判断力だけでなく、闘争の結果で地位が変わる世界が描かれています。
この展開を、現代の職場や人間関係では力で競争相手を排除すべきだという教訓に変えるのは適切ではありません。バックたちの生存競争と、人間社会での倫理的な行動は区別して読むべきでしょう。
旅の途中で犬たちを追い詰めた人間の判断
何度も長距離を走ったバックたちは、疲弊したまま別の人間の手に渡ります。経験が不足した持ち主たちは、荷物を積み過ぎたり、犬がどれほど疲れているかを理解できなかったりします。犬が一生懸命働いても、人間の無理な計画があれば危険は増すのです。
春が近づくころ、一行は川の氷が危険な状態にあるにもかかわらず進もうとします。そこにいたジョン・ソーントンは危険を警告しますが、持ち主は忠告を聞きません。経験者が指摘する危険を、都合のよい期待で打ち消した判断でした。
バックは動けず、再び打たれそうになりますが、ソーントンが止めに入って助けます。ほかの一行は進み、氷が崩れて命を失います。バックが助かったのは力だけではなく、危険を理解した人が介入したからでもあります。
ジョン・ソーントンへの特別な愛情
ソーントンに助けられたバックは、体力を回復させながら、彼のそばで暮らします。これまでの飼い主との関係とも違う、強い親しみを覚えるようになります。他者に大切に扱われたことで初めて得られた信頼が、この時期のバックにはあります。
ソーントンの仲間やほかの犬たちとも一緒に過ごし、バックは人間のそばで休みながら、ふと森の中の音へ心を向けます。人間との親密な結びつきと、野生へ惹かれる感覚の両方が同時に存在するようになります。
ソーントンのためにバックが危険を顧みず行動する場面もあります。しかし、動物が人を愛することと、危険な行動を強制してよいことは別です。作品が描く深い絆を、現実の動物に無理をさせる理由へ転用するべきではありません。
最後の事件――ソーントンを失ったバック
最終章でソーントンたちは、古くから語られる金鉱を探して山中へ入ります。バックは狩りをして森を歩き回る一方、何度も主人のもとへ戻ります。野生の暮らしへの興味が強まっても、ソーントンとの絆はまだ切れていません。
しかし、バックが長く留守にしたあと野営地へ戻ると、仲間たちは襲撃を受けていました。ソーントンもすでに死亡しています。原作では、特定の集団を名指しにして襲撃を描きますが、作品中の描写を、現実の先住民社会全体の性格や歴史の証拠として扱わないことが重要です。
バックは怒りから襲撃者たちを追い、何人も傷つけます。その後、ソーントンが死んだことを悟り、深い喪失感を抱きます。誰かを倒して主人を救い戻すという結末ではありません。
結末――オオカミの群れに加わった犬
ソーントンを失った夜、森からオオカミたちの声が届きます。バックはそれまでにも感じていた野生の呼び声に、今度は応じることができるようになります。人間との最後の強い結びつきが失われたあと、彼は森へ向かうのです。
群れのオオカミたちとの出会いは最初から穏やかなものではなく、バックは力を示し、彼らの中へ受け入れられていきます。物語の末尾では、バックがオオカミの群れとともに生き、特別な存在として語り継がれる姿が描かれます。
そのため『野性の呼び声』は、バックが元の屋敷へ帰る物語でも、ソーントンとずっと暮らす物語でもありません。飼い犬として始まったバックが、厳しい経験を経て野生の群れへ加わることが原作の結末です。
まとめ――「野性の呼び声」は幸福な冒険の勧めなのか
『野性の呼び声』では、連れ去られた犬バックがそり犬として生き抜き、ジョン・ソーントンに救われ、彼の死を経て最後はオオカミの群れに加わります。苦しみから始まり、愛情と喪失を通って終わる物語です。
全7章の出来事はProject Gutenbergの英語原作で、1903年刊本の書誌はユタ州立大学図書館の初版本所蔵記録で確認しました。作者ロンドンは1916年没で日本の原作著作権保護期間は満了していますが、挿絵や現代日本語訳は転載していません。
同じく動物を描く物語でも、『たのしい川べ』の友情と居場所や、『白鯨』の執着と喪失では焦点が異なります。バックが生き抜いた事実を、現実の犬に危険や苦痛を与えてよい理由にせず、物語の環境と人物の選択を丁寧に読みたいところです。