はじめに――高級なお店だから「敷居が高い」?
初めて入る高級レストランを前に、「このお店は敷居が高い」と言う人がいます。意味は分かりやすく伝わりそうですが、辞典が本来の意味として説明してきたのは、相手に不義理などをしたため、その人の家を訪ねにくいことです。値段の高いお店という意味ではありませんでした。
それでも、「高級で入りにくい」という理解は実際に広く見られます。文化庁の調査でも本来と異なる方の意味を選ぶ人が多く、言葉が時代の中で受け取られ方を変える様子が見えてきます。元の意味を知っていることと、現代の相手に誤解なく伝えられることは同じではありません。
この記事では、小学館『デジタル大辞泉』『精選版 日本国語大辞典』、文化庁の令和元年度「国語に関する世論調査」の公式資料から、意味の違いと調査結果を確認します。どの場面でどう言えば自然かも考えます。
「敷居が高い」の本来の意味と読み方
読み方は「しきいがたかい」です。『デジタル大辞泉』は、不義理や面目のないことがあって、その人の家へ行きにくいことだと説明しています。自分の側に気まずい事情があり、相手に会いづらいという気持ちを表す言葉です。
例えば、長いあいだ借りたものを返しておらず、友人に会いにくいと感じている場面なら、もともとの意味に合います。値段が高くて入りにくいこととは異なり、相手との間に積み重なった関係や、自分の気まずさが中心です。
「敷居が高い」という表現を聞いたとき、単に建物の敷居が物理的に高いことだと受け取る必要もありません。敷居は家の入口にある部材ですが、慣用句では訪ねることの心理的な難しさを表します。家へ行きにくいという感覚を、敷居の高さにたとえたものと理解できます。
文化庁の2019年度調査では、高級という意味が56.4%
文化庁の令和元年度「国語に関する世論調査」結果のポイントによると、「敷居が高い」の意味について、不義理があって行きにくいを選んだ人が29.0%、高級・上品で入りにくいが56.4%でした。後者の回答が大きく上回っています。
この調査の実施時期は2020年2月27日から3月15日で、調査員による面接聴取法が用いられました。「令和元年度」は2019年度を意味しますが、実際に質問したのは2020年です。調査の年度と実施した年月を混同しないようにしましょう。
この数字は、2026年の現在も同じ理解割合であると保証するものではありません。また、質問を見て選んだ回答と、普段の会話で実際に使う意味が一致するとは限りません。公的な数字から言えることと、言えないことを区別する必要があります。
2008年度調査と比べると何が見えるか
文化庁の平成20年度(2008年度)調査では、本来の意味が42.1%、高級で入りにくいが45.6%でした。2019年度調査ではそれぞれ29.0%と56.4%です。少なくとも両調査の回答割合を見る限り、高級という理解がより多く選ばれています。
ただし、二つの年度の数字だけで、すべての世代で同じ速さで意味が変わったと断定することはできません。調査によって回答者の構成や状況は異なります。全体の割合から、一人ひとりがどう考えたかまで分かるわけではありません。
同じ言葉を違う意味で使う人がいることは、ただ間違いを指摘する材料ではありません。意味がずれる可能性があると知れば、説明の仕方を考える機会になります。昔からの用法を理解しつつ、相手の受け取り方にも目を向けることができます。
17世紀の『吉原こまざらい』に見える用例
『精選版 日本国語大辞典』は、「敷居が高い」の古い用例として、1661~1673年の評判記『吉原こまざらい』を挙げています。人に顔を見せにくいような気まずさを表す文脈と結びつく記録です。
同じ辞典には、泉鏡花の小説『婦系図』(1907年)にもこの言葉の使用例が紹介されています。江戸時代から明治時代にかけての文章に記録されていると分かります。古い表現が文芸作品にも使われてきたことを知る手がかりです。
ただし、今回は辞典に採録された例文と作品名を確認したのであって、各作品の原本や版本を直接読んだわけではありません。また、1661年が言葉の絶対的な誕生年という意味でもありません。記録された古い用例と、語の起源そのものは区別しておきます。
なぜ「高級で入りにくい」に広がったのか
敷居という言葉から、入口を越えて建物に入る場面が思い浮かびます。そこへ「高い」という表現が重なると、格式や値段の高さが障壁になるイメージへつながりやすいかもしれません。元の比喩から、別の種類の心理的な距離へ意味が広がったと考えると理解しやすくなります。
ただし、個々の話し手がなぜその意味を選んだのかを、文化庁の調査だけで説明できるわけではありません。この見方は語感を理解するための編集上の考察です。辞典にある事実と、誤解が広まった原因についての推測を混同しないようにします。
言葉は使う人の中で変化しますが、通じる範囲や文章の種類によって選ぶ表現も変わります。改まった文書で従来の意味との衝突を避けたいなら、「高級で入りづらい」「格式が高く感じる」と具体的に言い換える方法があります。
「ハードルが高い」「高嶺の花」との違い
「ハードルが高い」は、何かをするための条件や難しさが大きいことを表す言い方です。高級なお店だけでなく、難しい試験や新しい仕事にも使えます。行動するための難しさに焦点がある点で、従来の「敷居が高い」とは異なります。
また、「高嶺の花」の意味と由来は、魅力的だが自分には手が届かないと感じる対象の話です。こちらも高級なものを指す場合がありますが、不義理があって誰かに会いにくいという意味はありません。憧れによる距離と、気まずさによる距離を分けると、言葉の違いが分かります。
例えば、行きたいレストランが高価格帯なら「私には予算的に難しい」と言えます。昔の恩師へ長年連絡しておらず、会いづらいなら「敷居が高い」が従来の意味に合います。何が訪問をためらわせるのかを具体的に考えると表現を選びやすくなります。
会話や文章で誤解を避ける使い方
ビジネスの文章では、「あの取引先は敷居が高い」と書くと、相手の格式が高いという意味にも、過去に不義理をしたという意味にも受け取られます。意図が変わってしまうと困る場面では、「以前ご迷惑をかけたので訪問しづらい」など、理由を明確にするのが安全です。
日常会話で友人が「そのレストランは敷居が高い」と言ったとき、相手の言葉をいきなり訂正する必要はないかもしれません。高価格帯だから入りにくいという話なら、会話は通じている場合があります。辞典上の説明を知りながら、話し相手が何を伝えたいかを聞くことも大切です。
一方、教える場面や編集の仕事では、元の意味と広まっている意味の両方を説明することに価値があります。どちらか一つを知っただけで相手を見下さず、必要な場面で適切に言い換えられるようにする。意味の違いを知ることは、伝え方の選択肢を増やすことなのです。
まとめ――「敷居が高い」は何が障壁なのかを考える
「敷居が高い」は、辞典で伝統的な意味として、不義理や面目のない事情があり、人の家へ行きにくいことを表します。一方、高級・上品なものへの近づきにくさを表す意味も、実際には広く理解されています。
文化庁の令和元年度調査では、伝統的な意味29.0%に対し、高級という意味が56.4%でした。歴史的な使用例は辞典の『吉原こまざらい』『婦系図』の項目で確認できますが、原典現物の直接照合は未完了です。
どちらの意味でも使われることを知ったうえで、相手に何を伝えたいかを確かめる。気まずくて会えないのか、高級で入りづらいのかを具体的に表現することで、言葉の歴史も、今日の会話も大切にできるでしょう。