はじめに――誰かの苦しみを見過ごすことの重さ
エリ・ヴィーゼルは、第二次世界大戦中の迫害を生き延び、記憶と人間の尊厳について語り続けた作家です。1999年4月12日、米国ホワイトハウスの講演で彼が警告したのは、怒りや憎しみだけではありませんでした。苦しむ人を見ても関心を向けず、反応しなくなることの危険です。
その講演には、Indifference is not a beginning, it is an end. という一節があります。「無関心は始まりではなく、終わりだ」と訳せる言葉です。当時のホワイトハウスが公開した講演と質疑応答の全文で、本人の発言を確認できます。
ここで言う無関心は、一瞬ぼんやりしてしまうことだけを指しているわけではありません。被害を受けている人が見えなくなり、問題を取り上げること自体をやめてしまう態度が論じられています。過去の出来事に関する証言を、現代の気軽な叱咤激励へ置き換えないようにしながら、その意味を読みます。
1999年4月12日、ホワイトハウスで行われた講演
この講演はクリントン政権のホワイトハウスで開かれた、世紀の変わり目を考える行事の一つでした。英語の演題は「The Perils of Indifference」で、無関心の危険を意味します。個人の性格を論じるより、暴力と迫害が起きた20世紀をどう記憶するかが中心でした。
ヴィーゼルは1986年のノーベル平和賞受賞者です。ノーベル賞公式の受賞発表も、迫害の経験を伝え、人間の尊厳と平和を訴えてきた活動を評価しています。1999年の演説を、1986年の受賞時の講演と取り違えないことが大切です。
ホワイトハウスの公式記録では、最初にヴィーゼルが講演を行い、その後にクリントン大統領らを交えた質疑応答が続きます。参加者全員が語ったことを、すべてヴィーゼル本人の言葉として引用してはいけません。発言者を記録上で分けて確かめる必要があります。
「無関心は終わりだ」の前後にある論理
ヴィーゼルは講演で、怒りが創作や不正義への抗議を生む場合がある一方、無関心は相手への反応自体を失わせると論じています。怒りを無条件に肯定したのではなく、苦しみを見ても何もしなくなることの危険を比較しているのです。
原文にある短い表現は Indifference is not a response. という言葉にも表れています。無関心は相手に対する応答にならないという趣旨です。困っている人の存在を認め、必要な助けや意見を考える前の段階で関心を閉ざしてしまうことが問題にされています。
この言葉を「知らないニュースを全部追い掛けなければならない」という命令に変えるのは飛躍です。人が処理できる情報や行動には限界があります。自分がすべてを解決できないことと、人が被害を受けている事実を忘れたことにすることは別と読みたいところです。
迫害の記憶と傍観者という問題
ヴィーゼルは自らの経験を語る中で、迫害の現場には加害者と被害者だけでなく、傍観者もいたと説明しました。直接手を下した人だけが歴史の中に存在するわけではなく、周囲がどう振る舞ったかも考える必要があるという問いです。
ただし、迫害の現場にいたすべての人が、同じ自由や能力を持って行動できたわけではありません。危険に置かれた人を後の時代から一律に責めるのは慎重であるべきです。危険を負って行動することの難しさと、問題を見なかったことにする態度を区別する必要があります。
本人は、政治的な囚人や避難を強いられた人、食べるものを失った子どもの存在を挙げています。無関心によって被害が消えるのではなく、被害を受ける人の孤立が深まるという指摘が、抽象的な格言を具体的な人間の問題へ引き戻しています。
ルワンダとコソボをめぐる質疑応答
1999年の講演が行われた頃、国際社会はコソボでの紛争にも向き合っていました。講演後の質疑では、ルワンダでの虐殺を生き延びた参加者が、国際社会の対応について厳しい問いを投げかけています。過去を記憶するだけでなく、現在起こる被害にどう対応するかが議論になりました。
ヴィーゼルは、その問いへの完全な答えを持っているとは述べず、ルワンダでなぜ行動できなかったのかについて疑問を示しています。クリントン大統領も別に応答しました。質問者、ヴィーゼル、大統領の発言を混ぜず、一次記録に沿って読むことが必要です。
他国の苦しみを知ることと、どのような政策を選ぶかも一つの問題ではありません。軍事介入には独自の危険や政治的な判断が伴います。無関心を戒めることが、特定の介入方法を無条件に正当化するわけではないと理解できます。
日常生活では無関心と距離感をどう分けるか
仕事や学校でも、困っている人がいることに気づきながら、声を掛けることをためらう場面があります。本人の希望を確かめ、安全に話せる機会をつくるだけでも、対応の第一歩になるかもしれません。相手の事情を聞かずに決めつけるより、まず状況を知ろうとする態度が重要です。
一方、他人の問題へ無断で踏み込むことが、いつも親切とは限りません。相談するかどうか、何を話すかを決める権利も相手にあります。関心を持つことと、相手の意思を尊重せずに介入することは別です。
当サイトのマンデラの1990年釈放演説も、人々の尊厳と社会の参加を扱っています。また、「愛の反対は無関心」という言葉の出典を調べた記事とは、ヴィーゼルの別の発言の帰属検証と、今回の1999年の講演原文を分けて読むことができます。
まとめ――反応を失わないために
「無関心は始まりではなく終わりだ」という趣旨は、1999年4月12日のホワイトハウス公式記録で確認できます。暴力や迫害への反応が失われることを、加害者を利する危険として警告した言葉です。
過去の迫害を知るときも、今日の社会の問題を考えるときも、知らないことを知り、当事者の話に耳を傾けることが出発点になります。何もかも自分で解決するという思い込みより、苦しむ人の存在を消さないことが、この演説の重要な問いです。
主要出典:クリントン政権ホワイトハウス公文書・1999年4月12日講演と質疑応答全文、ノーベル賞公式1986年平和賞受賞発表。講演本文と質疑応答の発言者を区別し、日本語は短い原文の説明訳として示しています。