はじめに|「異端者」を自分で名乗る
「I consider myself a heretic of the art world(自分は美術界の異端者だと思う)」。草間彌生が1999年のインタビューで答えた一節である。誰かに変わり者と評価された話ではなく、自分の制作を既存の分類に当てはめないという意思表示として読むことができる。
「異端」という言葉には、普通と違うために排除されるような響きがある。一方で、草間は他人が自分をどう分類するかを気にしないという趣旨を続けて語っている。周囲からの呼び名と、自分が何を作ろうとしているかを切り離すところに、この一節の面白さがある。
もちろん、異端であることそれ自体が優れた作品の条件になるわけではない。他人と違うことを目的にするのではなく、作りたいものを作ろうとした結果として既存の分類から外れるという順序を考えたい。
原典|1999年『BOMB』誌インタビュー
原典は米国の芸術誌『BOMB』の1999年冬号、グレイディ・T・ターナーによる草間彌生インタビューである。質問者が作品をミニマリズムと捉えてよいかと尋ねた場面で、草間は自分は独自の作家だと答えた。作品の分類を問う具体的な質問と、それに対する本人の回答を同じ資料で確認できる。
この発言はニューヨーク近代美術館(MoMA)の作家解説でも引用され、同じ『BOMB』インタビューが出典として示されている。一次資料に戻れるだけでなく、美術館の解説からも掲載媒体と発言の帰属を確かめられる。
日本語の「美術界の異端者だと思う」は英語掲載文の意味を示す説明訳であり、当時の日本語原稿を発見したことを意味しない。また、該当する短い一節以外を長く転載することもしない。翻訳と原文の境界を明らかにして言葉を扱うことが大切だ。
既存の流派に属さない|呼び名と作品は別
芸術作品は、時代や技法の共通点によって分類される。美術館では、ある流派に属すると説明されると作品を比較しやすくなる。しかし作家本人が、その分類を制作の目標にしているとは限らない。後から整理するための言葉と、創作の現場での判断は別なのである。
草間の作品は反復する網目や点の表現などで知られる。そうした表現を他の作家と比較することはできるが、どれか一つの流派にすべてを収めることは難しい。分類からはみ出す作品に出会うことは、既存の説明が十分かどうかを考え直す機会になる。
もちろん分類そのものを否定する必要はない。分類があるから研究や鑑賞が進むこともある。便利な枠組みは利用しつつ、それだけで個々の作品の意味が決まるとは考えない姿勢が重要である。
他人の評価と制作|「どう見られるか」の外へ
新しい表現を始めると、既存の人気作品に似ているかどうかで評価されやすい。その評価を参考にすることはできるが、すべての判断を他人の好みに委ねれば、自分が何を探していたか分からなくなるかもしれない。反応を聞くことと、反応に作品の方向を決めさせることは同じではない。
1999年のインタビューで草間が説明したのは、自分を既存の美術運動の一員と捉えるかどうかだった。自分で制作の位置づけを考えた発言を、他人からの批判を一切受け付けないという態度に変換しないようにしたい。
作品に向き合ううえで、専門家の説明を読むのも、先入観をいったん置いて眺めるのも、どちらも有効だ。分類を知らずに見る感覚と、分類を学んでから見える背景を行き来することで、鑑賞の幅が広がる。
現代への読み替え|自分の仕事を自分の言葉で説明する
仕事では、職種や役職によってできることが決まっているように感じる場合がある。しかし異なる分野を結びつける仕事は、既存の肩書だけでは説明しにくい。呼び名が見つからないから価値がないのではなく、何を実際に生み出しているかを考えることが先だ。
学びでも、いつも一つの専門分野だけから答えを探す必要はない。違う領域の方法を試すことで、新しい問いが見えてくることがある。「どの分野に属するか」に加えて「どんな問いを解こうとしているか」を持つと、探索の方向が明確になる。
独自の表現を選ぶ日本の芸術家の言葉として、岡本太郎「技術は後からついてくる」も比較できる。草間の一節は流派の分類との関係、岡本の言葉は表現と技術の順序を問う。異なる作家の思想を同じ個性論にまとめず、関心の差を読むことができる。
まとめ|異端という言葉を自由の宣言として読む
「I consider myself a heretic of the art world」は、草間彌生の1999年『BOMB』誌インタビューに掲載された本人の回答として確認できる。質問と回答の位置を特定でき、MoMAも同じ原典を参照しているため出典確認済みとして扱う。
この一節から学べるのは、何でも他人と違えばよいという単純な教訓ではない。既存の分類を知ったうえで、それが自分の制作をすべて説明できるとは限らないと考える姿勢だ。
誰がつけた名前なのか、それは何を説明するための名前なのか。作品や仕事を考えるとき、そんな問いが役立つ。外からのラベルより、自分が何をしているかを見失わないという読み方を、この言葉は促してくれる。