芦花公園「世の中には善人も悪人もいないと思っています。」の意味と出典|ホラーで描く人間の多面性

はじめに|人を善悪の二つに分けられるか

物語を読むとき、正しい人物と悪い人物がはっきり分かれていれば理解しやすい。ところがホラー作家の芦花公園は、「世の中には善人も悪人もいないと思っています。」と語った。刺激的な一節だが、ここで重要なのは、誰の行動にも責任がないという意味へ飛びつかないことだ。

芦花公園は、人の中に複数の面があり、置かれた状況によって違う姿が表れると説明している。普段は穏やかな人も、強い恐怖に直面すれば思いがけない行動を取るかもしれない。人を一つの性格で説明できると思い込まないという創作上の視点が、この言葉の背景にある。

しかし、行動に善悪の区別がないと主張しているわけでもない。人の行為によって他人が傷ついたなら、責任を考える必要がある。人間全体を決めつけることと、具体的な行動を評価することを分けるための言葉として読み解きたい。

この名言の背景|『終わった町の話をしよう』の人物像

朝日新聞の書籍メディア「好書好日」は2026年10月17日、芦花公園のホラー小説『終わった町の話をしよう』についての本人インタビューを公開した。作品は、超自然的な存在が信じられている地方都市で、赴任した会社員が不可解な出来事に巻き込まれる物語だ。人間の理解できない存在と、そこに暮らす人々の反応が題材になっている。

取材では、町の住人が超自然的な存在の意図を理解できず、理不尽に見える出来事へ直面する様子が語られた。芦花公園は、登場人物がもともと極端な悪人だから問題を起こすのではないと説明している。状況が変わることで、普段は隠れていた面が表へ出るという考え方だ。

インタビュアーが登場人物の愚かさや欲深さについて尋ねた場面で、芦花公園は善人と悪人へ単純に分けないという一節を語った。さらに人間には複数の層があり、関わる人や環境によって違う面が出ると述べた。人間を単純な記号にしないための創作観として確認できる発言である。

この名言が示す深い意味|行動と人格を一つにしない

誰かが失敗したとき、あの人は駄目な人だと全体を評価したくなることがある。しかし一つの行動だけで、その人が持つすべての面を知ったとは言えない。何をしたかを具体的に確認することと、その人全体を決めつけないことは両立するのである。

また、人の振る舞いは周囲の状況からも影響を受ける場合がある。恐怖や孤立、強い集団の圧力が加われば、平常時とは違う判断をすることもあるだろう。環境が行動へ影響する可能性を見ることは、行動の理由を深く考える手掛かりになる。

もちろん、背景を理解できたからといって、危険な行為や他人への加害が許されるわけではない。必要な場合には被害を防ぎ、責任を問うべきだ。理解することと免責することを混同しない姿勢を保つことで、この言葉を過度に一般化せずに済む。

この名言の現代的な解釈|短い投稿で人物を決めない

SNSで誰かの一場面だけを見たとき、その人の性格を簡単に評価したくなることがある。ところが切り取られた映像や文章には、前後の事情が含まれていないかもしれない。反応する前に、何が確認できていて何が推測なのかを分けることが大切だ。

仕事でも、うまくいかなかった人を一度の結果で評価し続けると、改善の機会を見落とす場合がある。役割や支援の仕方を変えることで、別の長所が見えるかもしれない。行動の問題点を明確にしながら、その人の可能性を一つの結果へ閉じ込めない視点が役に立つ。

ただし、危険な行為を繰り返す相手について、必ず良い面があるからと無条件に信頼する必要はない。安全のために距離を取る判断もあり得る。多面的に理解しようとすることと、自分や他人の安全を守ることは別々に考えられる。

この名言を日常生活で実践する方法|評価を具体的な出来事へ戻す

誰かについて強い印象を持ったとき、どの行動からそう考えたかを書き出してみよう。本人を知っている範囲と、想像で補った部分を分ける。人そのものへのラベルを、観察できた具体的な出来事へ戻すことが最初の一歩になる。

次に、状況が違ったら同じ人が別の判断をする可能性があるか考える。もちろん他人の事情を勝手に決めつけてはいけない。必要なら直接話を聞き、事実を確かめる。相手を理解するために、説明を増やす前に情報を集める姿勢が大切だ。

人間の中に複数の面があるという点では、朝野幸一の「多面的で多様なペルソナ」という発言を解説した記事と比較できる。一人の人間を一つの特徴だけで説明しないという共通点を、自己理解と物語の両方から考えられる。

まとめ|善悪の記号より複雑な人間を描く

「世の中には善人も悪人もいないと思っています。」は、2026年10月17日公開「好書好日」の芦花公園本人インタビューにある。『終わった町の話をしよう』の登場人物の愚かさや欲深さを問われた場面で、作者自身の考えとして語られた一節だ。

芦花公園は、人が持ついくつもの面が環境によって表へ出ると説明している。だから物語の人物を、最初から善人か悪人かに振り分ける方法を取らなかった。何が人をその行動へ向かわせたのかを問い直すことが、怖さと人間らしさの両方を生むのだろう。

この言葉を普遍的な事実として証明された法則にする必要はない。ホラーを書く作者の人間観として受け取り、現実でも人の行動を慎重に見る手掛かりとしたい。行動の責任は考えながら、一つの評価で人を説明し切らないという教訓がある。

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