はじめに|文章を書く人は何を聴くのか
文章を書くことは、自分の考えを相手に伝える行為だと説明されることが多い。しかし2023年ノーベル文学賞受賞者のジョン・フォッセは講演で、「書くことは、私にとって聴くことだ」と語った。書き手が一方的に言葉を押し出すというイメージとは、少し違う。
耳を澄ます相手は、必ずしも目の前の人ではない。自分が書き始めた文章や、まだ形になっていない展開に注意を向けながら進める。書きながら次に来る言葉を探すという創作の方法が示されている。
もちろん、どんな文章も準備せず書く方が優れているという意味ではない。フォッセが自身の作家としての経験を述べた言葉である。独自の創作方法を、誰にでも当てはまる規則に変えないことが大切だ。
文章をうまく書けないときには、先に結論を作ろうとしているのかもしれない。自分が書いた一行を読み返し、そこから何が見えてくるかを考えるという別の入り方もある。
原典|2023年ノーベル文学賞講演の英訳稿
NobelPrize.org公開のジョン・フォッセ講演「A Silent Language」英訳PDFには、本文4ページに「the act of writing is to me to listen」と記されている。話者、講演題名、掲載ページ、該当英文を公式資料で特定できる。
同じ段落でフォッセは、自分が書く際には準備せず、計画せず、聴きながら進むと説明する。さらに、書くという行為を比喩で表すなら聴くことだと繰り返す。偶然の一言ではなく、創作方法について一貫した説明になっている。
その後には、若いころ音楽に親しみ、やがて書くことに移った経験が続く。彼にとって文章と音楽には重なるものがある。言葉の長さや繰り返し、沈黙を感じ取る創作を考える手がかりだ。
掲載稿はノルウェー語講演の英訳で、翻訳者としてMay-Brit Akerholtが明記されている。ここでの日本語はその英語をもとにした説明訳であり、原語の細かなニュアンスをすべて確定したものではないと区別しておきたい。
深い意味|書いた言葉が次の言葉を呼ぶ
最初から文章全体の結論が分かっているとは限らない。書き出してから、自分でも意識していなかった問いが現れる場合がある。書くことを思考の結果だけでなく、考えを発見する過程として捉えられる。
フォッセの創作にとって、沈黙や間も重要だ。言葉にしない時間があるからこそ、人物の気持ちを読み手が想像できることもある。伝える内容を増やすことだけが、作品の豊かさではない。
ただし、沈黙の意味は一つではない。言いたくても言えない場合もあれば、あえて言わない場合もある。言葉のない場所へ勝手に一つの正解を当てはめない慎重さが必要になる。
書いたものを自分で読み返すことは、他人の意見を無視することとは違う。作品を育てるためには、読者の受け止め方を考える場面もある。自分の言葉を聴くことと、他者の声を聴くことは両立する。
現代的な解釈|生成AI時代の文章の作り方
生成AIは短い指示から長い文章を作れる。しかし、出てきた文章を読まずに採用すれば、自分が何を伝えたいのか分からなくなる場合がある。生成された言葉の意味と、自分の目的が合っているかを読み直す必要がある。
一方、道具が変わること自体は、創作の価値を失わせるとは限らない。書き手がどんな資料を調べ、どんな言葉を選び、どこを直したかという過程もある。道具の使い方だけでなく、選択と編集の責任が問われる。
フォッセは2023年の文学講演で創作方法を話しており、現在の生成AIの使い方を解説したわけではない。彼の言葉を現代の文章制作に引き寄せて考えていることを明示したい。
仕事の文章では、創作と違って期限や正確性が優先される場合もある。自由に書き出す方法と、必要な情報を先に整理する方法を使い分ける。何のための文章なのかで作り方を変えることが大切だ。
日常生活で実践する方法|まず書いてから読み直す
考えがまとまらないときは、結論を決める前に短い一段落を書いてみる。そして、それを読み返して自分が何に引っかかったかを探す。書きながら問いを見つける練習になる。
次に、説明しすぎている箇所がないか確かめる。大切な情報は残しつつ、同じことを繰り返す部分を見直す。削ることも、文章の声を聴く一つの方法として考えられる。
人に見せる前には、相手が理解するために必要な背景を補う。自分には分かる言葉でも、読み手にとって分かりやすいとは限らない。自分の文章を聴き、次に読み手の反応を想像する順序を試したい。
同じ言葉の問題を別の角度から考えるなら、トニ・モリスン「私たちは言葉を紡ぐ」もある。フォッセが語る文章を生み出す感覚と、モリスンが問う言葉を使う責任を比較できる。
まとめ|言葉を出すだけでなく受け取る
「書くことは聴くことだ」は、フォッセが2023年ノーベル文学賞講演で、自身の創作の仕方を説明した言葉である。あらかじめすべてを決めるのでなく、書きながら現れる言葉へ注意を向ける姿勢が中心にある。
文章を作る方法は一つではない。綿密な構成が必要な文章もあれば、書き始めてから方向が見える文章もある。自分が何を書こうとしているかを読み直す時間を持ちたい。
言葉は情報を伝える道具であるだけでなく、考えを深める手がかりにもなる。書いたものに耳を傾けるという比喩は、表現に向き合う姿勢を変えてくれる。
原典はJon Fosse「A Silent Language」Nobel Lecture 2023(英訳PDF、本文4ページ)。「the act of writing is to me to listen」の一文と、その直後に創作を聴くことにたとえる説明を公式講演録で特定したためタグ114とする。