はじめに|他人を気の毒に思う気持ちの裏側
「人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。」。芥川龍之介『鼻』の中で、周囲の人々が禅智内供を見る態度を説明する一節である。困っている人に同情する気持ちと、その人が苦境を脱すると物足りなく感じる気持ちが共存しうるという、厳しい人間観察が示される。
この言葉は、すべての人が必ず他人の不幸を望むと断定する公式ではない。作品の語り手は、内供を取り巻く人々の行動を理解するために一つの説明を試みている。他人を思いやる心を否定するよりも、自分でも気づきにくい反応を見つめることが読みの中心になる。
また、この文は禅智内供本人が叫んだ台詞でも、作者が作品外で話した訓話でもない。小説の地の文にある語り手の考察であることを確認してから、前後にある出来事と結びつけたい。
原典|青空文庫『鼻』の中盤
青空文庫に掲載された芥川龍之介『鼻』では、内供の鼻が短くなった後、周りの人が以前よりも強く彼を笑う場面に続いて、この一文が現れる。一節だけでなく、その説明が必要になった理由を作品本文から直接確認できる。
続く文章では、他人の不幸を気の毒に思いながら、その人が不幸を切り抜けると、どこか物足りなくなるような感情が説明される。さらに語り手は、その態度を「傍観者の利己主義」と呼ぶ。「二つの感情」が何を指すかは、直後の具体的な文章に基づいて読む必要がある。
青空文庫の図書カードによれば、初出は1916年2月の『新思潮』である。作品が発表された年と、現在オンラインで読める底本の刊行年を混同しないことも出典を扱う上では重要だ。
内供の悩み|長い鼻と人の目
禅智内供には人並み外れて長い鼻があり、本人はそれを気にしている。しかし周囲には気にしていないように振る舞い、他人に弱みを悟られたくない。身体上の特徴そのものに加えて、人にどう見られるかという不安が苦しみを深めている。
鼻を短くする方法を試すと、内供は長年の悩みが減ることを期待する。外見が変われば周囲からの扱いも変わり、自分は安心できるだろうと考えたとしても不思議ではない。
しかし周囲の笑いは消えず、むしろ以前と違う調子になる。本人が解決を望んだ問題と、他人が興味を持って見ていたものは一致していない。この食い違いが、語り手の「二つの感情」という考察につながる。
一つ目の感情|他人への同情
一つ目に示されるのは、他人の不幸を気の毒に思う感情である。誰かが困っているとき、その人が楽になってほしいと願うことはある。ここでは同情という感情が、周囲の人々の態度の一面としてまず認められている。
しかし、同情は必ずしも相手の事情を深く知ることと同じではない。遠くから見て気の毒に思っていても、何をしてほしいのかは本人に聞かなければ分からない。感情としての同情と、相手の役に立つ具体的な行動を分けることが必要だ。
作品において、周囲の人が実際に内供を支える仕組みを作ったという説明はない。気の毒だと思うことと、他人の立場を尊重して接することの間には隔たりがある。この点に注意すると、次の感情とのつながりが見えてくる。
二つ目の感情|回復した相手への物足りなさ
内供の鼻が短くなると、周囲の人々は前よりも露骨に笑うようになる。語り手は、困っていた人が助かると、かえって物足りなく感じてしまう気持ちがあると説明する。他人の不幸を見慣れた状態に、自分の安心や好奇心を預けていた可能性を考えさせる。
これは、周囲の人々が全員同じ動機を持っていたと個別に証明する文章ではない。語り手が提示する人間心理の一つの見方である。人間全員に共通する法則として拡大せず、作品が何を描こうとしたかに即して読むことが重要だ。
内供自身も、周りの反応を理解できずに苛立ってしまう。一度困難が解消されても、他人の評価を気にする問題まで消えるとは限らないことが見えてくる。鼻の長短だけを解決の基準にできない物語だ。
「傍観者の利己主義」|見る側の都合
語り手が挙げる「傍観者の利己主義」は、困っている人を眺める側が、自分の感情や興味を優先してしまうことを示す。当事者がどう感じるかより、眺める側にとって分かりやすい物語を保ちたくなる危うさがある。
誰かの失敗を気の毒に感じた後、その人が立ち直ると、自分の出番がなくなったように感じる場合もあるだろう。しかしその感覚を相手の行動を制限する理由にしてはならない。相手の回復を自分の満足の材料として扱わないという問いに向き合いたい。
『鼻』の全体を別の形で確認したい場合には、「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」を扱う記事と比較できる。周囲の人を見る語り手の考察と、内供自身の心の声では、視点が異なることが分かる。
まとめ|同情の中にある矛盾を見る
「人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。」は、芥川龍之介『鼻』にある語り手の考察である。不幸を気の毒に思いながら、その人が助かると物足りなく感じてしまうという矛盾が、内供を笑う周囲の態度を通じて示される。
この一節を、人間はみな意地悪だという結論にする必要はない。大切なのは、他人を思いやっているつもりの自分の中に、相手を自分の都合で見ていないかを問い直す余地があることだ。同情の言葉だけでなく、その人の変化を本当に喜べるかを考えたい。
原典確認:青空文庫・芥川龍之介『鼻』本文。タグ114根拠:鼻を短くした内供が以前より笑われる場面の直後に「人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。」を逐語確認。文学・作家ハブから別の作品の言葉にも進める。