「これでいいのだ」は、誰が何を肯定する言葉か
何かうまくいかなかった日に、「これでいいのだ」とつぶやいてみる。力が抜ける人もいれば、「本当にそれでいいのか」と心配になる人もいるだろう。赤塚不二夫の『天才バカボン』でバカボンのパパが使うこの言葉は、失敗をすぐに正解へ変える魔法ではなく、いつもの判断をひっくり返すギャグの言葉として読むと面白い。
2018年のアニメ『深夜!天才バカボン』公式サイトは、「これでいいのだ!」をバカボンのパパのよく知られた台詞として紹介している。まず区別したいのは、原作漫画の登場人物が発する言葉と、原作者が人生訓として直接語った言葉は同一ではないということだ。
この一節は短いが、主語も理由も明かさない。「何が」よいのか、「なぜ」よいのかを説明しないから、読む人は自分の場面を重ねてしまう。余白の大きさと、断言するような語尾との組み合わせが印象に残る。
最初の掲載号|1968年『週刊少年マガジン』34号
明治大学の米沢嘉博記念図書館は、赤塚不二夫生誕80周年の展示記録で「バカボンのパパと『これでいいのだ』」という項目を設けている。そこには、パパがこの言葉を初めて口にしたのは『週刊少年マガジン』1968年34号だと記されている。作品と該当掲載号を特定できる具体的な手掛かりである。
同じ展示記録は、「それでいいのだ」「いいのだ」といった近い言い方もパパが繰り返していると説明する。一つの決まった台詞だけが突然完成したのではなく、肯定するような言い回しが作品の中で展開していたことが分かる。
ただし、今回直接確認したのは、当時の雑誌の紙面そのものではなく、原画や資料を調査した図書館の展示解説である。掲載号まで特定された根拠があることと、当時のコマや吹き出しを本記事で直接実見したことは区別する。この言葉が「1968年に初めて日本語として使われた」などという主張もしない。
「これ」と「いいのだ」|理由を説明しない強さ
「これでいいのだ」の「これ」は、目の前の出来事や状態を指せる。何を指しているかが変われば、同じ言葉の意味も変わる。説明を短くするかわりに、そのときの場面へ意味を任せているところが、ギャグの台詞として柔軟なのだ。
語尾の「のだ」には、普通なら何か根拠がありそうな響きがある。ところが、バカボンのパパが断言しても、読者が常識的な根拠を見つけられるとは限らない。論理の姿をした言葉が、論理だけでは割り切れない世界を楽しませる。理屈っぽい説明をすると、かえってこの面白さを逃してしまうかもしれない。
一方、「これでいい」と決めつけて人の迷惑を無視すればよいという教訓ではない。漫画の中のナンセンスと、現実で自分の行動に責任を持つことは別だ。台詞の開放感を味わいながらも、現実の被害や問題まで無かったことにはしない読み方ができる。
1971年のアニメと、赤塚不二夫の言葉としての広まり
米沢嘉博記念図書館の展示記録は、1971年のアニメ主題歌を通じて、このフレーズが広く家庭に浸透したとも説明している。文字で読む漫画と、繰り返し耳にするテレビ番組では、言葉の届き方が違う。台詞が作品の外へ広がり、耳なじみのある決め言葉になった過程が見えてくる。
同館は、やがてバカボンのパパと作者・赤塚不二夫の姿が重ねて受け取られるようになったとも記す。作品の言葉が作者の生き方を表す格言のように受け取られることはある。けれども、作者への連想と、ある日時の本人発言としての出典は別である。
当サイトには赤塚不二夫に帰属する別の言葉の出典検証もある。人物の印象に合うからといって発言の原文が確認できるわけではない。「この人なら言いそうだ」という気分から、実際の資料へ戻ることが、名言を読むときの基本だ。
まとめ|そのままの自分を笑って受け止める余地
「これでいいのだ」は、バカボンのパパが『天才バカボン』で使う代表的な言葉だ。明治大学の展示記録は、1968年の『週刊少年マガジン』34号を最初の掲載号として示している。作品の中の一節として出典をたどれる。
何がよいかを詳しく説明しないから、この言葉は時にナンセンスで、時に優しく聞こえる。完璧でない自分や思いどおりにならない出来事を、少し笑って見られるような余地もある。ただしそれは原作を手掛かりにした現代の読みであり、あらゆる失敗を肯定せよという命令ではない。
主な資料は明治大学・米沢嘉博記念図書館「赤塚キャラ誕生のひみつ 展」R019と『深夜!天才バカボン』アニメ公式サイトである。掲載号と登場人物への帰属を確認し、作者本人の独立した発言と混同しないことを重視した。