はじめに|「道」を言葉にすると何が失われるのか
「道可道,非常道」。中国古典『老子』、またの名を『道徳経』の第1章冒頭に置かれた言葉である。伝統的には「道の道とすべきは、常の道にあらず」と読まれ、言葉で示せる道と、変わらぬ根本の道との関係を問いかける。
私たちは何かを理解したいとき、そのものに名前をつけ、定義を作り、他人に説明する。ところが説明が分かりやすくなるほど、実際の複雑さを見落とすこともある。言葉は理解を助けると同時に、対象を一つの形に切り取ってしまう。
ただし、だから言葉は役に立たないと即断するのも違う。『老子』の本文自体が言葉によって書かれているからだ。言葉の限界を、あえて言葉で考えるという逆説を第一章から読んでみたい。
原典|『道徳経』第1章の二つの対句
出典は『老子(道徳経)』第1章。Project Gutenbergの漢文本文は「道可道,非常道。名可名,非常名。」と始まる。最初の「道」と「名」が並行して語られ、両者の限界が対句で示される構成である。
現存する『老子』には、伝本や古い出土資料によって字句や章の構成の違いがある。今回引用するのは、一般に流通する通行本の章立てに基づく本文である。通行本の第1章を確かめたことと、古代の全写本が同じ文字列だったと証明することは別だ。
本文はProject Gutenberg『道德經』第1章で確認できる。王弼注を付した『老子』第1章も参照した。本文と後世の注釈を区別し、どこから読みを得たのか明らかにする。
「道可道」の意味|同じ字の違う働き
「道可道」では、同じ「道」という字が重ねられるが、すべてを同じ意味で読む必要はない。初めの「道」を根本的な道、次の「道」を言葉で示しうるという働きとして読む解釈がある。同じ文字の反復によって、対象と説明との距離が生まれる。
「非常道」の「常」は、変わらず続くという意味に関連づけて解される。つまり、言い表せる道は、永久不変の道そのものとは一致しないという読みが成り立つ。定義できたという事実だけで、世界の根本を完全に手にしたとは限らないという警告である。
もっとも、この一節の解釈は一つに確定していない。文の区切り方や「道」の働きの捉え方によって、訳は変わり得る。解釈が分かれる古典を、現代日本語の一文だけで完全に置き換えたと考えない姿勢が大切だ。
「名可名」との関係|名前を付ける力と限界
続く「名可名,非常名」は、名づけられる名は常なる名ではない、という趣旨に読まれる。道を説明することと、物事に名前を付けることが対応づけられている点が、第一章の特徴だ。
名前を付ければ、似たものをまとめて考えやすくなる。けれども、一つの言葉の内側にある個々の違いは消えやすい。例えば「成功」という言葉一つでも、人によって思い描く状態は違う。概念が便利であるほど、その概念の外に残るものにも注意を向けたい。
同じ章の後半では「無」と「有」、「妙」と「徼」など、互いに関わる概念が置かれる。冒頭だけを切り取って神秘的な標語にするのでなく、名前と存在をめぐる章全体の問題として読むと見通しが良くなる。
現代の読み方|説明できたことと理解したことの差
仕事では、複雑な出来事を短い図や数字に整理して伝えることがある。情報が共有しやすくなる一方、分類に収まらない事情が見えなくなることもある。説明のうまさと、対象を十分に理解していることは同じではない。
これは専門知識を軽視しろという意味ではない。むしろ、良い説明ほど何を省略したのかを自覚し、必要に応じて現物や資料に戻ることができる。概念は世界の代用品ではなく、世界を調べるための手がかりと捉えたい。
他人を理解するときにも、肩書きや性格を表す短い言葉で決めつけたくなる。しかし、その人は一つの分類より複雑である。名前を付ける便利さを使いながら、名前だけで分かったつもりにならないという態度が、この古典から考えられる。
まとめ|言葉を捨てるのではなく問い直す
「道可道,非常道」は、『老子』『道徳経』第1章の冒頭に確認できる。Project Gutenbergの漢文本文と王弼注を伴う通行本で、この二つの対句の位置と文字列を照合できるため、通行本における出典確認済みとする。
この一節は、言葉が無意味だと言うのではなく、説明できたものを根本そのものと取り違えないよう促すと読める。理解しようとする努力と、その理解には限界があると認める態度を両立させるところに意味がある。
本文は『道徳経』第1章。同じ書の別の一節を読むなら「上善は水の如し」第8章がある。定義し尽くせない「道」と、身近な水を通して語る「道」を比べると、老子の表現の幅が見える。