数年前の自分と、今の自分はかなり違います。
仕事が変わる。住む場所が変わる。付き合う人が変わる。大切にするものも変わる。
それでも私たちは、昔の自分と今の自分をつないで「自分」と呼びます。
では、どこまで変わったら、もう同じ自分ではなくなるのでしょうか。
この少し奇妙な問いを考えるための足場になるのが、「テセウスの船」という古い思考実験です。
テセウスの船とは何か
古代ギリシャの英雄テセウスが使ったとされる船を、長いあいだ保存するとします。
木材は古くなります。そこで一本ずつ、新しい木材へ交換していきます。
やがて、最初に使われていた部品が一つも残らなくなった。
その船は、まだ「テセウスの船」なのでしょうか。
この問題の古い記述として知られているのが、プルタルコスの『テセウス伝』です。重要なのは、唯一の正解を当てることではありません。「同じもの」であることを、材料・形・機能・歴史・連続性のどこに求めるのかを考えさせられる点にあります。
人間も、少しずつ入れ替わっている
この問いを人間に置き換えると、急に身近になります。
二十歳のころに信じていたことを、今は信じていない。昔は欲しかった肩書きに、今はそれほど興味がない。以前なら選ばなかった仕事を、今は面白いと思う。
価値観が変わるたびに「昔の自分は間違っていた」と考えることもできます。
でも私は最近、少し違う見方をしています。
人は、一貫していないから同じ人ではなくなるわけではない。
むしろ、変わってきた履歴そのものが、その人の連続性なのかもしれません。
キャリアも「テセウスの船」なのかもしれない
キャリアについて考えるとき、私たちはつい一本の線を求めます。
最初に専門分野を決め、その道を深め、肩書きを積み上げていく。もちろん、それも一つの形です。
一方で、実際のキャリアはもっと雑然としています。
私自身も、営業から始まり、ITを学び、技術に近い仕事を経験し、異なる組織や役割を通り、コンサルティング的な仕事を経て、マーケティングへ来ました。
仕事内容だけを比べれば、かなり部品が入れ替わっています。
それでも振り返ると、「分からないものを理解したい」「複雑なものを整理したい」「人と人、技術とビジネスの間をつなぎたい」といった関心は、形を変えながら残っています。
だから私は、キャリアを一本道として見るより、部品を交換しながら航海を続ける船として見る方がしっくりきます。
以前書いた「キャリアは一本道でなくていい」で考えた「キャリアの編集」とも、この問いはつながっています。
変わることと、軸がないことは同じではない
「自分らしくありたい」と思うほど、人は変化を怖がることがあります。
昔言ったことと違う。以前の目標を捨てる。職種を変える。価値観を書き換える。
それを「一貫性がない」と感じることもあります。
でも、船を守るために傷んだ板を交換するように、変わり続けることによって守られるものもあります。
以前のミッションステートメントを読み返した記事でも、昔と今で言葉は変わっているのに、繰り返し戻ってくる価値観があることに気づきました。
軸とは、何十年も同じ行動を続けることではなく、変化の中でも何度か戻ってくる問いや価値なのかもしれません。
会社やブランドにも同じ問いがある
テセウスの船は、個人だけでなく組織を考えるときにも面白い視点を与えてくれます。
社員が入れ替わり、経営者が変わり、商品が変わり、ロゴまで変わった会社を、それでも同じ会社だと感じるのはなぜでしょう。
法人としての連続性だけではなく、顧客との約束、文化、物語、意思決定の癖など、目に見えないものが「同じもの」という感覚をつくっている場合があります。
逆に、名前もロゴも同じなのに「もう昔とは別の会社になった」と感じることもあります。
ブランドとは何を変えてよく、何を残すべきなのか。この問いにも、テセウスの船は使えます。
「本当の自分」を探すより、何を残したいかを考える
自己分析をしていると、「本当の自分は何者なのか」という問いに向かいがちです。
けれど、最初から完成した「本当の自分」がどこかに隠れていて、それを発見すれば人生の答えが出る、という考え方だけがすべてではないと思います。
人は経験によって変わります。仕事によって変わる。人との出会いによって変わる。失敗によっても変わる。
だから問いを少し変えてみます。
これから自分の部品が入れ替わっていくとして、それでも残したいものは何だろう。
その問いなら、変化を否定せずに、自分の軸について考えることができます。
言葉だけでなく、概念も「考えるための足場」になる
このサイトでは長いあいだ、名言や格言を集めてきました。
最近は、言葉を人生の答えとして扱うのではなく、考えるための足場として使いたいと思っています。
テセウスの船のような概念も同じです。
「同じ船か、別の船か」という正解を出す必要はありません。
その問いを借りることで、自分、キャリア、会社、ブランド、そして変化について、昨日とは少し違う角度から考えられる。
それだけでも、古い哲学の問いが今まで残ってきた意味はあるのだと思います。
出典メモ:テセウスの船については、プルタルコス『対比列伝』の「テセウス伝」に、アテナイ人が船の古い木材を取り替えながら保存したという記述があります。そこから同一性をめぐる哲学的問題として論じられてきました。