はじめに
「人間を吟味せよ。疑う者には疑わせ、信じる者には信じさせよ」として流通する言葉には、カフカのツューラウ・アフォリズム75という原典があります。
原文は「Prüfe dich an der Menschheit. Den Zweifelnden macht sie zweifeln, den Glaubenden glauben.」。より素直には「人類を基準に自分を試せ。それは疑う者を疑わせ、信じる者を信じさせる」といった構造です。
「他人の信念を尊重せよ」という意味ではない
旧記事では「疑う人には疑わせ、信じる人には信じさせ、他人の信念へ介入しないこと」が中心だと説明していました。
しかし原文の命令形は冒頭の「Prüfe dich」(自分を試せ)にかかります。続く「Den Zweifelnden macht sie zweifeln, den Glaubenden glauben」の主語は「Menschheit(人類・人間というもの)」を受ける「sie」であり、人に「疑わせよ」「信じさせよ」と命令する文章ではありません。人類を物差しに自分を試すと、疑う者の疑いも、信じる者の信念も強まるという逆説的な読みが可能です。ただし、これが唯一の確定的な解釈だとは断定できません。
さらに重要なのは、この断片が抹消されていること
後世の校訂・転写資料では、75番には抹消された断片としての扱いが確認できます。1931年刊『Beim Bau der Chinesischen Mauer』の239頁を転写したWikisourceでは「75*」と表示され、TextGridの校訂データもカフカが原稿で抹消した項目を区別する編集方針を説明しています。ただし、今回はオックスフォードの自筆原稿そのものを実見していないため、線の引かれ方や異稿ごとの状態まで独立確認したとはしません。
つまり、本人が書いた真正な文章ではありますが、「カフカが完成形として採用した確定的な教え」と同じ扱いにはできません。
名言として流通すると、この編集上の情報はほぼ消えてしまいます。
経験は、信念を必ず修正するとは限らない
現代に引き寄せるなら、人は同じ出来事を見ても、自分の既存の信念に合う証拠として受け取ることがあります。
ただし、この心理学的説明をカフカ本人の意図として断定する必要はありません。短い断片が示すのは、人間を見れば真理が一つに決まるのではなく、疑いも信仰も強まりうるという奇妙な両義性です。
まとめ
この言葉はカフカのツューラウ・アフォリズム75に原文があります。
ただし、日本語の「疑う者には疑わせ、信じる者には信じさせよ」は命令形に見えやすく、原文とは少し違います。さらに本人が抹消した草稿断片であることも、名言として読む際には残しておくべき情報です。
出典状態:原文確認済み/流通日本語に文言変化あり。Franz Kafka, Zürau Aphorism 75. 原文は「Prüfe dich an der Menschheit. Den Zweifelnden macht sie zweifeln, den Glaubenden glauben.」。TextGrid Repository校訂本文(75番) / 1931年刊行版239頁の転写 / Franz Kafka公式作品案内(成立・刊行・資料所在)。後世の編集処理と、本人が確定稿として残したかという問題は分けて扱います。
カフカを人物から読む
フランツ・カフカ人物ページでは、出版作品、書簡、ツューラウ・アフォリズム、抹消草稿、後世の回想、出典未確認の流通句を区別しながら横断して読めます。