はじめに
「私にラベルを付けるだけで、あなたは私を否定できます」。キルケゴールの言葉として英語圏でも広く流通する一節です。
ところが、今回原典を追った範囲では、この文言をキルケゴール本人の著作や日記から確実に確認できませんでした。したがって、真正な直接引用として扱うのは避けるべきです。
なぜキルケゴールらしく聞こえるのか
キルケゴールは、個々の人間を抽象的な体系の一要素として処理する哲学に強い警戒を向けました。特にヘーゲル的な「体系」と、現実に生きる単独者との緊張は、彼を読むうえで重要なテーマです。
そのため「人にラベルを貼ることは、その人を否定することだ」という表現は、彼の思想を現代語で要約した文章として非常にそれらしく見えます。しかし実際の研究史では、キルケゴールを「反ヘーゲルの孤独な個人主義者」とだけ捉えるのも単純化です。Stanford Encyclopedia of Philosophyの研究解説は、批判対象にデンマークのヘーゲル派も含まれ、ヘーゲルとの関係はより複雑だったことを説明しています。
思想の要約が「名言」になる
名言の誤帰属は、まったく無関係な人物へ言葉が付けられる場合だけではありません。思想家について後世の研究者や解説者が書いた要約が、いつの間にか本人の一人称の言葉へ変わることがあります。
この言い回しに近い確認可能な資料として、哲学者Jean Wahlによる1945年9月30日付『The New Republic』の論考「Existentialism: A Preface」があります。ワールは、キルケゴールとヘーゲルの論争を説明する際、体系という「全体」に組み込まれることは自分の存在を否定する、という趣旨を一人称の引用形式で書きました。ただし、この形式だけではキルケゴール自身の著作からの逐語引用だと証明できません。
後年になると「全体・体系」から「ラベル」へ言い回しが変化した形が流通します。英語版Wikiquoteの出典未確定の言葉の一覧には1967年の雑誌への投書、1974年の雑誌等が挙げられていますが、今回はそれらの紙面を直接確認していません。したがって、言葉が変化した具体的な経路と初出は未特定です。
この一節についても、キルケゴールの個人・単独者を重視する思想との近さと、直接引用としての証拠は分けて考える必要があります。
まとめ
「私にラベルを付ければ、あなたは私を否定する」という言葉は、キルケゴール本人の確実な原典を現時点で確認できません。
ただし、なぜ彼の名で定着しやすかったのかを考えると、「思想として似ている」ことが「本人の発言」に変わる名言生成の仕組みが見えてきます。
出典状態:要検証(後世の解説との接点は確認、本人の原文未確認)。Jean Wahl, “Existentialism: A Preface,” The New Republic, 30 September 1945。1945年の論説本文は確認しましたが、現在の短文そのものや「label」という語を含むキルケゴール自身のデンマーク語原典は確認できていません。人物ページから本人の著作や思想へ進めます。