はじめに
「わずかしか持たない者ではなく、多くを望む者が貧しいのである。」これはセネカの真正な文章として確認できます。
出典は『倫理書簡集』第2書簡6節。ラテン語では Non qui parum habet, sed qui plus cupit, pauper est. とあります。
興味深いのは、その直前でセネカがエピクロスの言葉を引用していることです。この一文はその引用そのものではなく、セネカが続けて加えたコメントです。
第2書簡は「読書」から始まる
第2書簡でセネカは、ルキリウスがあちこちを渡り歩かず、一つの場所に落ち着いていることを評価します。
そして読書についても、多数の著者や本を次々と渡り歩くのではなく、優れた著者のもとに留まり、そこから確かなものを身につけるよう勧めます。
話題はそこから富と貧しさへ移り、セネカはエピクロスの言葉を紹介したうえで、自分の補足として「少ししか持たない者ではなく、より多くを欲する者が貧しい」と書きます。
所有量だけでは決まらない「貧しさ」
この一文が対比しているのは、持っている量と欲している量です。
財産が増えても欲望がそれ以上に膨らみ続けるなら、「足りない」という感覚は終わりません。反対に、少ない所有でも欲望との関係が変われば、不足感の意味も変わります。
ただし、現実の経済的貧困を「心の持ちよう」に還元する言葉として使うのは慎重であるべきでしょう。セネカがここで扱う哲学的な貧しさと、生活上の困窮は同じ概念ではありません。
ストア派なのにエピクロスを引用する
この書簡の面白さは、ストア派のセネカが学派の異なるエピクロスを積極的に引用している点にもあります。
セネカは、有益な真理は特定の学派だけの所有物ではないという態度を繰り返し示します。
そのため第2書簡は、「ストア派対エピクロス派」という単純な対立図式よりも、セネカが他学派の言葉をどう自分の倫理的議論へ取り込んだかを見る材料にもなります。
現代に引き寄せて考える
欲しいものが手に入れば満足できると思っていても、次の欲望がすぐに現れることがあります。
この一文は「何も欲しがるな」という命令というより、自分の不足感は所有物の少なさだけから生まれているのかと問い直す入口になります。
消費や比較が身近な時代だからこそ使いやすい言葉ですが、現代社会批判をセネカ本人の主張として付け加えないことも大切です。
まとめ
「少ししか持たない者ではなく、多くを欲する者が貧しい」は、セネカ『倫理書簡集』第2書簡6節に確認できる真正な一文です。
直前にはエピクロスからの引用がありますが、この文自体はその後に置かれたセネカ自身のコメントです。
出典の流れまで読むと、この言葉は単なる「物欲を捨てよう」という格言ではなく、所有と欲望のどちらが不足感を作っているのかを問う文章として見えてきます。
作品とテーマから読む
この言葉が問題にするのは所有物の絶対量より、欲望が「十分」をどこまで遠ざけるかです。『倫理書簡集』全体から読むと、欲望を扱う実践哲学の中で位置づけられます。さらに「幸福とは何か」では、モンテーニュ、ショーペンハウアーと比較できます。