太宰治『女生徒』「眼鏡をとって遠くを見るのが好きだ」|少女の語りと美しさの両面

「眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のように、覗き絵みたいに、すばらしい」。太宰治の言葉として紹介されることが多い一節ですが、原典は小説『女生徒』です。話しているのは太宰本人ではなく、眼鏡をかけた少女の一人称の語り手。朝の鏡の前で自分の顔を見つめ、眼鏡を外したときの景色や人の顔を思い描く場面に置かれています。

原典は1939年発表の『女生徒』冒頭

青空文庫『女生徒』の本文では、一日を朝から夜までたどる少女の内面が描かれます。この言葉はごく冒頭、起床して鏡に向かう場面です。青空文庫の書誌情報では、初出は『文學界』1939年4月、底本は1954年刊の角川文庫『女生徒』(1968年改版)です。

語り手は自分の眼鏡を嫌いながら、眼鏡を外すと顔が少しぼやけ、しっとり見えると感じます。そして遠くの景色がかすみ、細部が見えなくなることを、美しい絵のように描写します。ここには視力の問題が、感覚や自己イメージの表現へ変わっていく面白さがあります。

眼鏡を外した世界が「優しく」見える

続きを読むと、少女は眼鏡を外すことで、相手の顔が優しく美しく笑っているように見える、と語ります。さらに眼鏡を外していると、人と喧嘩したいとも悪口を言いたいとも思わなくなる、と感じています。

ここを加えると、「視点を変えれば新しい発見がある」という一般的な教訓だけでは片づきません。細部が見えなくなることは、不快なものを見ないで済むという心の働きにもつながり、少女の望む対人関係のあり方まで映し出しています。

ところが、その直後に「眼鏡は、いや」と続く

一方、同じ段落を越えると、少女はやはり眼鏡が嫌いだと繰り返し、眼鏡が表情や感情の表れを遮ると感じています。「眼鏡は、お化け」という強い表現も現れます。

つまり、眼鏡を外した景色への憧れがある一方で、眼鏡をかけた自分への違和感もあります。この一節を明るい人生論だけにすると、少女が抱えている自意識や揺れが消えてしまいます。作品では、同じ一日の中でさまざまな気分が移り変わるため、ある瞬間の言葉だけを人物の最終結論として受け取らないことが大切です。

小説の語り手と作者を区別する

太宰は『女生徒』の作者ですが、作中の「私」が感じたことを、そのまま太宰本人の実体験として紹介することはできません。小説には語り手の視線を通じて対象を描く仕組みがあり、作者はその人物の言葉を使って作品を構成しています。

同じ作品の「明日もまた同じ日が来るだろう」の記事は、夜の終わりにある希望と不安を扱っています。こちらの「眼鏡をとって」は朝の自己認識を扱うため、一日の始まりと終わりを対比して読むことで作品の構造が見えます。

現在の私たちに引き寄せるなら

  • ものごとがはっきり見えることと、その見え方を心地よく感じることを分けて考える。
  • 「見えていない細部」が人との距離感を変える場合もあることを、文学的な比喩として考える。
  • 自分の体験と小説の登場人物の経験を重ねるときも、作者の実体験と混同しない。
  • 眼鏡や矯正器具の使用についての医療的な助言として、この文学的描写を利用しない。

これらは『女生徒』を読んで考えられる問いです。眼鏡を外すことが視力や心理状態を改善するという実証的な主張ではありません。

出典判定・参考資料

判定:出典確認済み。 太宰治『女生徒』の冒頭で、少女の一人称の語りとして登場。1939年4月『文學界』初出です。現在閲覧した青空文庫テキストは角川文庫版を底本としており、1939年の雑誌原本とは逐字照合していません。

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