はじめに
「誰もが世界を変革することを考える。だが誰も己を変えようとは考えない」。トルストイの代表的な名言として知られています。
この言葉は完全な誤帰属ではありません。1900年に英訳出版されたトルストイの「Three Methods of Reform」には、“everybody thinks of changing humanity, and nobody thinks of changing himself.” とあります。
ただし、現在よく見る “Everyone thinks of changing the world …” は原文英訳そのものではありません。humanity(人類)だった部分が world(世界)へ変わった後世の言い換えです。
原典は「Three Methods of Reform」
この文章の直前でトルストイは、永続する革命があるとすれば、それは「内なる人間の再生」という道徳的革命だと論じています。
そして、人類全体がどう変わるかは誰にも分からないが、一人ひとりは自分自身の中で変化を感じられる、と続けます。その流れで「誰もが人類を変えることを考えるが、自分を変えることを考えない」と書きます。
つまりこれは単なる自己啓発の「他人より自分を変えよう」ではなく、社会改革をどこから始めるべきかというトルストイ晩年の思想の一部です。
「世界を変える」は後世の磨かれた表現
1900年のAylmer Maude訳では “changing humanity” です。現在有名な “changing the world” という短く整った形は、少なくとも同版の文言とは一致しません。
意味は非常に近いため、トルストイの思想を捏造した文章とは言いにくい。一方で、引用符を付けて「本人がこの英語をそのまま言った」と扱うのも正確ではありません。
このようなケースは、真正な文章が引用され続けるうちに、より覚えやすい形へ圧縮・言い換えられる例として扱うのが適切です。
社会を変えることを否定しているわけではない
この言葉だけを見ると、「社会問題を語る前に自分を変えろ」という政治的無関心のすすめにも読めます。しかし、トルストイ自身は国家、暴力、財産、労働、戦争などの社会問題を激しく論じた人物です。
彼が問題にしているのは社会改革そのものではなく、自分自身を改革の対象から除外したまま、制度や他人だけを変えようとする姿勢です。
世界と自己を二者択一にするのではなく、自分自身も変化の範囲に含める。原典の文脈では、そのように読む方が自然です。
まとめ
「誰もが世界を変えようと考えるが、自分を変えようとは考えない」は、トルストイの思想に確かな原典があります。
ただし1900年の英訳で確認できる文章は「世界」ではなく「人類を変える」です。現在有名な表現は、その真正な文章から生まれた後世の言い換えと考えるのが正確です。
そして原典へ戻ると、この一文は単なる自己改善の標語ではありません。永続的な社会変革と、一人ひとりの内面的な変化を切り離せるのかという、トルストイ晩年の大きな問いにつながっています。