はじめに
「驚異は全哲学の、探求は進歩の、無視は終わりのはじまりである」。モンテーニュの名言として流通してきた日本語ですが、原典と比べると最後の部分に重要なズレがあります。
『エセー』第3巻第11章にある原文は、「驚異はあらゆる哲学の基礎、探求はその進展、無知はその終点」という意味です。「無視」ではなく「無知」であり、「終わりのはじまり」でもありません。
哲学は驚きから始まる
モンテーニュは、驚異から哲学が始まり、問い続けることで探求が進むと書きます。ここまでは「知らないものを知っていく」という普通の知的成長の話にも見えます。
しかし最後に置かれるのが「知識」ではなく「無知」であるところが、この一節の核心です。
探求の終点が「無知」である理由
直後でモンテーニュは、知識に名誉や勇気の点で劣らない「強く高潔な無知」がある、と論じます。
つまり、何も知らないままでいることを称賛しているのではありません。探究を重ねた結果、世界や自分について簡単には断言できないことを理解する。深く知ろうとした人ほど、自分がどれほど知らないかを知る。そこに彼の懐疑があります。
自分自身さえ理解しきれない
この章でモンテーニュは、自分自身を観察すればするほど、自分が驚くべき存在に見え、ますます理解できなくなるという趣旨も述べています。
『エセー』は「自分を研究すれば完全な自己理解へ到達できる」という本ではありません。むしろ観察するほど人間の複雑さが見えてきて、簡単な答えから遠ざかっていきます。
旧訳が意味を反転させていた
「無視は終わりのはじまり」とすると、「学ぶのをやめれば成長も終わる」という自己啓発的な教訓になります。しかし原文が語るのはほぼ逆です。
探求を続けた末に、自分の無知を認識する。その無知は失敗ではなく、軽率な断言から人を遠ざける知的態度でもあります。
まとめ
モンテーニュの原文に即するなら、「驚異は哲学の基礎、探求はその進展、無知はその終点」と読むべきです。
知ることの反対として無知があるのではなく、本気で知ろうとした先に、自分の無知を知ることがある。これは「私は自分の意見を述べる。それが良いからではなく、自分の意見だから」という姿勢ともつながる、『エセー』の懐疑を象徴する一節です。
テーマを横断して読む
「無知を知る」という姿勢を、知識の力、方法、自分で考えることと横断して読むことができます。「知るとは何か」テーマページ →