「真の賢者は己の愚を知る者」|ソクラテス『弁明』の「無知の知」と原典

はじめに

「真の賢者は己の愚を知る者なり」という言葉は、ソクラテスの名言として広く紹介されています。

しかし、この日本語そのものがプラトンの著作にソクラテスの台詞として記されているわけではありません。内容の源流として確認できるのは、プラトン『ソクラテスの弁明』21d–eで語られる有名な場面です。

そこでソクラテスは、自分と「賢いと思われている人物」を比べ、相手は知らないのに知っていると思っているが、自分は知らないことを、知っているとは思わない。その小さな点で自分の方が賢いらしい、と考えます。

したがって「真の賢者は己の愚を知る者なり」は、ソクラテスの思想を短く表した後世の要約としては理解できるものの、逐語的な引用として扱うべきではありません。

原典は『ソクラテスの弁明』21d–e

『弁明』では、ソクラテスの友人カイレポンがデルフォイの神託に「ソクラテスより賢い者がいるか」と尋ね、誰もいないという答えを得たことが語られます。

自分を賢いと思っていなかったソクラテスは、その意味を確かめるため、賢いと評判の人々を訪ねます。

ある人物を調べたあと、ソクラテスは、二人とも立派なことを知らないらしいが、相手は知らないのに知っていると思っている一方、自分は知らないものを知っているとは思わない、と考えます。

英訳ではたとえば、“what I do not know I do not think I know either” と表現されています。

これが、日本で「無知の知」と呼ばれる考え方を理解するうえで重要な箇所の一つです。

「私は何も知らない」とは少し違う

ソクラテスについては「私は、自分が何も知らないことを知っている」という言葉も有名です。しかし、これも『弁明』の文章そのままではありません。

『弁明』21d–eで重要なのは、ソクラテスが「あらゆることを何も知らない」と宣言していることではなく、自分が知らないことについて、知っていると思い込まないという点です。

実際、『弁明』29b–cでは、死について知らないのに知っていると思うことを無知として批判する一方、不正を行うことが悪いことについては「知っている」とも語ります。

そのため「ソクラテスは何も知らないと主張した」と単純化すると、原典より強い主張になってしまいます。

「己の愚を知る」と読むなら

では、「真の賢者は己の愚を知る者なり」という日本語には価値がないのでしょうか。

そうではありません。逐語的な引用ではないと理解したうえでなら、『弁明』の議論を短く思い出すための言葉として読むことができます。

ただし「自分は愚かだと謙遜できる人ほど立派だ」という道徳訓だけにすると、ソクラテスの営みが薄まります。彼がしているのは単なる謙遜ではなく、自分や他人が本当に知っているのかを問い、確かめることだからです。

「知らない」と言うことそのものが知恵なのではなく、知っているつもりになっている領域を見分けることが重要になります。

現代に引き寄せて考える

現在は、検索すれば膨大な情報へアクセスできます。そのため「情報を見たことがある」と「理解している」の境界が曖昧になりやすい時代でもあります。

仕事でも学習でも、「これは知っている」と感じた瞬間に、それ以上問いを持たなくなることがあります。

そんなとき『弁明』のソクラテスは、「本当に知っているのか」「知らないのに知っていると思っていないか」という、一段手前の問いを投げかけます。

これは自分を卑下するための思想ではありません。むしろ、知識の境界線を正確に見るための態度として読むことができます。

まとめ

「真の賢者は己の愚を知る者なり」は、プラトンの著作にそのまま存在するソクラテスの台詞ではありません。

一方、『ソクラテスの弁明』21d–eには、ソクラテスが「知らないことを、知っているとは思わない」という点で自分は相手よりわずかに賢い、と考える場面があります。

したがって、この有名な日本語は原典の逐語訳ではなく、『弁明』の議論を圧縮した後世の要約として扱うのが適切です。

「自分の愚かさを認めよう」というだけでなく、どこまで知っていて、どこから知らないのかを自分で見分けられるか。そこに戻ると、ソクラテスの問いは今でも十分に鋭く響きます。

ソクラテスを人物から読む

ソクラテス人物ページでは、歴史上のソクラテス、プラトン作品のソクラテス、後世に付与された出典未確認の名言を区別して読めます。

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