「私を他の連中と比較しないでいただきたいね。第一にあなたは私という人間を知っていない。それに、他の連中のことも知っていない。」
ポール・ヴァレリーの名言として広く紹介されていますが、正確にはヴァレリー本人が自分自身について語った言葉ではありません。
ヴァレリーの作品『ムッシュー・テスト(Monsieur Teste)』で、架空の人物テスト氏(M. Teste)が語る台詞です。
原文は「Ne me comparez pas à d’autres」
フランス語原文では、次のように書かれています。
Ne me comparez pas à d’autres : car, primo, vous ne me connaissez pas — et puis, vous ne connaissez pas les autres.
大意は、「私を他人と比較するな。第一にあなたは私を知らないし、そのうえ他人のことも知らない」です。
ヴァレリー研究資料を公開するOBVIL/Huma-Numの『カイエ』にも、「Ne me comparez pas à d’autres !」から始まるほぼ同じ文章が残されています。そこでは『ムッシュー・テスト』の該当箇所への参照も付されています。
話者はヴァレリーではなく、テスト氏
ここで重要なのは、作者と登場人物を分けることです。
この文章を書いたのはヴァレリーですが、作品内で発言しているのはテスト氏です。したがって、引用として紹介するなら、「ヴァレリー作『ムッシュー・テスト』におけるテスト氏の台詞」とするのが正確です。
文学作品では、登場人物の台詞が作者名だけと一緒に流通し、いつの間にか「作者本人の人生哲学」として扱われることがあります。この引用も、その典型例です。
この台詞が面白いのは、「比較」より「知ること」を疑っているから
現在の名言紹介では、「他人と比べず自分らしく生きよう」というメッセージへまとめられることが多い言葉です。
しかし原文を読むと、もう少し皮肉があります。
テスト氏が問題にしているのは、単に比較すると落ち込むからではありません。そもそも比較の前提となる「あなたは私や他人を十分に知っている」という思い込みを疑っています。
人間を一つの尺度で並べようとしても、その人について知っていることは断片的です。比較対象についても同じです。それなのに、「この人はあの人より優れている」「自分はあの人より劣っている」と簡単に判断してしまう。
この台詞は、その比較以前の認識の粗さを突いています。
SNS時代の自己比較に縮めると、少しもったいない
現代ならSNS上の他人と自分を比べる問題にもつながります。ただし、「SNSを見ないようにしよう」という処方箋だけにすると、この言葉の鋭さは薄れます。
問われているのは、比較する前に、自分はその二人を本当に知っているのかということです。
経歴、肩書、収入、実績、フォロワー数。比較できそうな数字はたくさんあります。しかし数字が同じ尺度に並んでいることと、人間そのものを比較できることは別です。
テスト氏の台詞は、「比較をやめれば幸せになる」というより、比較という行為そのものの根拠を疑ってみる言葉として読む方が面白いでしょう。
出典と判定
原文は『Monsieur Teste』で確認できます。また、ヴァレリーの『カイエ』を公開するOBVIL/Huma-Numにも同文があり、『ムッシュー・テスト』の該当箇所への参照が付されています。
作品本文はLe Cycle de Monsieur Testeでも確認できます。
したがって、文章自体はヴァレリー作品に確認できますが、ヴァレリー本人の直接発言としての帰属は不正確です。この記事では「誤帰属」として扱います。
引用の判定基準は出典ステータスの読み方にまとめています。