「時の言うことをよく聴け。時はもっとも賢明なる法律顧問なり」。古代アテナイの政治家ペリクレスの言葉として知られています。しかし、出典をたどると、法律上の助言者を呼んだ場面ではありません。無謀な軍事遠征を思いとどまるよう、ペリクレスが別の将軍に訴えたという逸話です。後世の伝記作家プルタルコスが書いた『ペリクレス伝』第18章を中心に、言葉が使われた場面と記録の限界を考えます。
出典は『対比列伝』所収の『ペリクレス伝』第18章
ペリクレスは紀元前5世紀のアテナイで政治・軍事を担った人物です。その行動を伝える代表的な文献の一つが、後の時代に生きたプルタルコスによる『対比列伝』の「ペリクレス」です。
同書第18章に、ペリクレスが「時」という最も賢明な助言者の判断を待つよう勧めたという逸話が記されています。バーナデット・ペリンの英訳は “wait for that wisest of all counsellors, Time” という形で、19世紀のクラフ訳も近い表現です。
この一節は、私たちがいまよく目にする “Time is the wisest counsellor of all.” という簡潔な格言の基礎になっています。ただし、格言集の英語は文脈を切り詰めた引用であり、古代の政治家がそのままの英語で発言したことを意味しません。
将軍トルミデスへの忠告だった
伝記によれば、当時の将軍トルミデス(Tolmides)は過去の軍事的成功で評価を高め、若く勇敢な兵士たちを集めてボイオティアへの遠征を計画していました。ペリクレスは、その時機が不利だと考え、民会で遠征を思いとどまるよう忠告します。
トルミデスがペリクレスの助言に従わないとしても、少なくとも時間という助言者を待って判断するのがよい、と語ったと記されています。つまり、ここでの「時」はただの時計や運命ではなく、状況の変化を見極めるための判断材料という意味で登場します。
その後の遠征でトルミデスはコロネイア近郊の戦いに敗れて戦死し、多くの兵士も命を落としたと伝記は続けます。この結果によってペリクレスの慎重な判断への評価が高まったというのが、逸話全体の筋書きです。
なぜ「法律顧問」という訳は誤解を生むか
日本語の流通形には「時はもっとも賢明なる法律顧問なり」とあります。しかし英訳の counsellor は助言者・相談相手を意味し、ここで弁護士や法律専門家を指すわけではありません。
原典の場面は軍事遠征をめぐる政治的助言であり、法廷の手続きや法律顧問の職責を論じていません。したがって当サイトでは「時は最も賢明な助言者」という説明訳を用います。
また「時間が経つまで必ず何もしない」という意味に限られません。ここでは、まだ不確かな状況で不可逆的な行動を急ぐことへの戒めとして読む方が、伝記の文脈に合います。
「待つ」は、いつでも正解なのか
慎重さは大切ですが、先延ばしによって被害が大きくなる場合もあります。自然災害、医療上の危険、進行中の不正などに対して、ただ時間の経過を待つべきだと一般化することはできません。
ペリクレスが問題にしたのは、十分な理由もなく大きな損失を生む恐れのある遠征を急ぐことです。現代に引き寄せれば、「待つと何が分かるのか」「待つことで誰が不利益を受けるのか」を同時に考える必要があります。
プルタルコスの伝記は、発言当日の逐語録ではない
ここで重要な史料上の留保があります。ペリクレスの生きた紀元前5世紀と、プルタルコスが活動した紀元1〜2世紀の間には大きな時間の隔たりがあります。『ペリクレス伝』は、古い出来事を伝える貴重な著作ですが、当日の録音や会議の速記録ではありません。
したがって「伝記にはペリクレスの言葉として記載されている」と、「ペリクレスの発した音声を一字一句そのまま確定できる」は異なる判断です。引用の歴史では、誰がどの書物で伝えたかを明らかにすることが不可欠です。
指導者の判断について考える
『ペリクレス伝』第18章では、危険の大きな戦いを自ら求めず、幸運に恵まれた他の将軍の冒険をただ模倣しない、という人物像が説明されています。「時を待て」という言葉は、部下や市民の生命を危険にさらす判断に慎重であるべきだという、この描写の一部です。
たとえば企業で新しいサービスを立ち上げるとき、短期的な成功例に乗って拙速に投資するのか、前提や需要を小さく確かめるのか、という違いがあります。ただし、古代の軍事判断と現代の経営は同一ではありません。これは古典を参考にした当サイトの解釈です。
出典と確認範囲
【古典の英訳】Plutarch, Life of Pericles, chapter 18(シカゴ大学公開、Bernadotte Perrin英訳)。トルミデスの遠征、忠告、敗北と戦死までの連続した記述を確認しました。
【別訳の照合】Plutarch, Life of Pericles(John Dryden系/Arthur Hugh Clough編訳の公開版)。“time, the wisest counsellor of all” を含む近い英訳を照合しました。
【刊本ページ】『Plutarch’s Lives』1865年版345頁の転写。当該逸話が第18章に存在することを別の刊本資料で確認しました。
監査判定:プルタルコスの伝記第18章に対応する逸話を確認済み。ペリクレス本人の逐語的発言記録は未確認。 日本語の「法律顧問」は意味を誤らせるため「助言者」と説明し直しました。日本語定型文の最初の翻訳者と掲載媒体は特定できていません。
他の原典をたどる記事は名言・原典ガイドもご覧ください。

「時を待つ」は、何もしないことを美徳とするだけの言葉ではありません。取り返しのつかない決断に際して、いま見えていない情報がないか、行動することで誰にどんな影響が出るかを考える。古代の軍事上の逸話は、その慎重さを問い直す手掛かりになります。