「人は自分が思うほど幸せでも不幸せでもない。肝心なのは…」はロマン・ロランの名言?|2つの原典を検証

はじめに

「人はおおむね自分で思うほど幸せでも不幸でもない。肝心なのは、望んだり生きたりすることに飽きないことだ。」という一文は、ロマン・ロランの名言として広く流通しています。

しかし原典を分けて確認すると、この日本語全体を一続きのロマン・ロランの文章として確認することはできませんでした。前半はラ・ロシュフコー『箴言』の第49番とほぼ対応し、後半はロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』で叔父ゴットフリートが語る台詞に対応します。

前半「幸せでも不幸せでもない」はラ・ロシュフコー

ラ・ロシュフコー『箴言』第49番には、On n’est jamais si heureux ni si malheureux qu’on s’imagine. という一文があります。

直訳に近く言えば、「人は、自分で想像するほど幸福でも不幸でもない」といった意味です。現在日本語で流通する「人は自分が思うほど幸せでも不幸せでもない」という前半句は、この文章と非常に近い形です。

後半「望み、生きることに飽きない」は『ジャン・クリストフ』

一方、「肝心なのは、望んだり生きたりすることに飽きないことだ」という趣旨は、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』に確認できます。

英訳本文では、主人公クリストフが自分の失敗や弱さを嘆く場面で、叔父ゴットフリートが「望むことと生きることをやめないことが大切だ」という趣旨を語ります。したがって、作者ロマン・ロラン本人の独立した格言ではなく、作品内の登場人物の台詞として読む必要があります。

なぜ二つが一つの名言として流通したのか

今回確認した資料だけでは、いつ、誰が二つの文章を現在の日本語の形へ結合したのかまでは特定できません。

ただし、少なくとも「前半から後半までをロマン・ロランが一続きに書いた」と扱うのは避けた方がよいでしょう。前半にはラ・ロシュフコーという明確な先行原典があり、後半には『ジャン・クリストフ』の別の場面があります。

このため本記事では、現在の流通形を意訳・文言変化を含む複合的な名言として扱います。

それでも、この二つの言葉はなぜつながりやすいのか

ラ・ロシュフコーの前半は、人が自分の幸福や不幸を想像の中で大きく捉えがちであることを示します。

ゴットフリートの後半は、人生が思い通りにならなくても、望むこと、生きること自体を手放さない姿勢を語ります。

原典は別でも、「自分の現在を絶対視しすぎず、それでも生を続ける」という読み筋では自然につながります。だからこそ、一つの名言として定着しやすかった可能性は考えられます。ただし、これは流通形を読んだ上での解釈であり、成立過程そのものを示す証拠ではありません。

作者と話者を分けて読む

『ジャン・クリストフ』を書いたのはロマン・ロランですが、後半を語るのはゴットフリートです。文学作品の言葉では、作者が書いた文章であることと、作者本人が直接その信条を述べたことを分ける必要があります。

作品全体の中で読む場合は、『ジャン・クリストフ』作品ページへ。幸福という問いから他の思想家と比較する場合は、幸福とは何かからたどれます。

まとめ

「人は自分が思うほど幸せでも不幸せでもない。肝心なのは、望んだり生きたりすることに飽きないことだ」という流通形は、今回確認した範囲では一続きのロマン・ロランの文章ではありません。

  • 前半:「自分で思うほど幸福でも不幸でもない」――ラ・ロシュフコー『箴言』第49番と対応。
  • 後半:「望み、生きることをやめない」――ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』でゴットフリートが語る台詞と対応。
  • 二つを誰がいつ結合したか――現時点では未確認。

出典の確かさを基準に別の名言も探す場合は、出典から名言を探すへ進んでください。

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