はじめに
「人間が慣れることのできぬ環境というものはない」。この言葉には、トルストイの『アンナ・カレーニナ』に明確な対応箇所があります。
英訳では「人が慣れることのできない状況はない。特に、周囲のすべての人が同じように暮らしているのを見れば」と続きます。
後半まで読むと、単なる「人間は適応力がある」という励ましとはかなり違う言葉だと分かります。ここで描かれているのは、人間が好ましくない状態にさえ慣れてしまう力です。
『アンナ・カレーニナ』でレーヴィンに何が起きていたのか
この文章は、第7部でレーヴィンの状態を描く地の文として現れます。彼は以前なら受け入れられなかったはずの生活を送りながら、それでも眠れてしまう自分の姿に置かれています。
浪費、飲酒、妻を苦しめるような振る舞いなどが重なっている。それでも疲労や酒の影響もあり、彼は平然と眠ります。
そこで語り手が、人はどんな状態にも慣れることができ、とりわけ周囲の人々も同じように暮らしていればなおさらだ、と述べます。
「適応力は素晴らしい」という言葉ではない
この一節だけを切り出すと、「どんな環境でも人は適応できる」「環境が変わっても大丈夫」という前向きな名言として読めます。
しかし小説内ではむしろ逆方向の含意があります。人間の適応能力は苦境を生き抜く力である一方、本来なら疑問を抱くべき生活まで正常だと思わせることがある。
しかもトルストイは「周囲も同じように暮らしている」という条件を付けています。自分一人なら異常だと感じることでも、社会全体が同じなら違和感が薄れていく。この後半部分を落とすと、言葉の鋭さもかなり失われます。
これはレーヴィンの台詞ではない
もう一つ大切なのが話者です。この文章はレーヴィン自身が口にした名言ではなく、彼の状態を説明する語り手の文章です。
『アンナ・カレーニナ』の文章なのでトルストイ作品からの引用であることは確かですが、「トルストイが講演で人生訓として語った」といった種類の言葉ではありません。
小説では、登場人物の台詞、内面の思考、語り手の文章を分けることで、引用の意味がより正確になります。
まとめ
「人間が慣れることのできぬ環境というものはない」は、『アンナ・カレーニナ』に対応する真正な文章です。
ただし原文には「特に、周囲のすべての人が同じように暮らしているのを見れば」という重要な続きがあります。
これは適応力を単純に称賛する言葉ではありません。人は苦境にも適応できるが、同時に、おかしな状態にも慣れてしまえる。その両義性まで読むと、現代にも通じるトルストイの人間観が見えてきます。
出典:トルストイ『アンナ・カレーニナ』第7部第13章。Constance Garnett訳では “There are no conditions to which a man cannot become used, especially if he sees that all around him are living in the same way.” と確認できます。 Project Gutenbergで本文を確認する
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