「花を愛するのに植物学は不要である」。稲垣足穂の言葉として知られる短い一文です。しかし、この一行を「知識を学んでも意味はない」という結論に使ってしまうと、作品の面白さが損なわれます。『横寺日記』を読んだ複数の記録には、この言葉の後に昆虫、さらには天体へと思考が広がる文章が紹介されています。花を見て美しいと思うことと、その花の仕組みを知ることは本当に対立するのでしょうか。
出典として報告されるのは『横寺日記』
稲垣足穂の作品『横寺日記』を読んだ書評には、「花を愛するのに植物学は不要である」に続けて、昆虫についても同様であり、天体についてはなおさらだ、という趣旨の文章が引用されています。短い格言からは見えてこない天文学や星への関心が、もとの文脈を読む手掛かりになります。
書誌の側でも、この作品が実在することは確認できます。CiNii Booksの『ちくま日本文学 稲垣足穂』(筑摩書房、2008年)の収録作品一覧には『横寺日記』が明記され、国立国会図書館サーチの『稲垣足穂大全』第1巻にも同作品の収録が記録されています。
ただし、今回は刊本の該当ページそのものを開いて校合できていません。したがって、「作品名が特定され、読書記録で文言の対応が示されている」状態と「刊本の頁・異同まで一次資料で確定した」状態は区別します。
「不要」とは、科学を否定する言葉なのか
「植物学は不要」というのは、花を愛するための必須条件として植物学の知識を要求しなくてよい、という読み方ができます。花の名前や分類を知らなくても、色や形、香り、季節の変化に心を動かされることはあるでしょう。
しかし、植物学が無価値だということにはなりません。植物の生態を学んだことで、今まで気づかなかった構造や環境との関係が見えてくる場合もあります。感動は知識がなくても生まれうることと、知識が感動を深めることは両立します。
なぜ、花から昆虫、そして天体へ向かうのか
『横寺日記』に関する読書記録では、著者の星座観察や夜空への関心が繰り返し語られます。花・昆虫・天体を並べる構成からは、対象を分類することと、その存在に魅了されることの違いを、身近なものから宇宙的なものへと広げようとする感覚が読み取れます。
花なら植物学、昆虫なら昆虫学、星なら天文学。対象を研究する学問はそれぞれ異なります。しかし、初めて見た光や動きに驚くという体験は、専門知識の習得を待たずに始まる場合があります。ここに、作品が語りかける魅力があります。
ただし、これらは公開されている読書記録を踏まえた解釈です。作者の当時の心理を断定したり、個々の比喩に唯一の正解があると説明したりすることは避けます。
『横寺日記』とはどんな文章なのか
『横寺日記』は、随想や日記的な観察を通して、東京での暮らしと空や星への関心を記す作品として紹介されています。2008年の『ちくま日本文学』に収録されており、同巻の目次には『雪ヶ谷日記』や『空の美と芸術に就いて』など、足穂の自然や空をめぐる文章が並びます。
読書記録の一つでは、日記に星の観察が頻繁に登場すると評されています。星への思い入れが強い作者にとって、天文学の知識と星そのものを見つめる喜びは、似ているようで異なるものだったのかもしれません。
知ることと感じること――二つの入口
たとえば初めてある星座を眺める人が、名前を知らなくても美しいと思うことはできます。一方、星座の位置や季節ごとの見え方を知れば、同じ夜空に新しい発見が生まれるでしょう。
同じことは絵画や音楽にも当てはまります。鑑賞者は理論を知らなくても作品に惹かれるかもしれませんし、制作技法を学んで理解を深めることもできます。大切なのは、知識がなければ感じる資格がないと決めつけず、また、知識を持つ人の感受性を低く見積もらないことです。
「何も学ばなくてよい」という誤用を避ける
この言葉を学習そのものへの反論に使うと、作者が示した可能性を狭めます。専門家にしか世界の美しさが分からないわけではない。でも、専門家になることを軽視する理由でもない。この違いを踏まえて読めば、感性と知性は敵対するものではなく、世界と関わる異なる通路になります。
また「好きだから勉強は不要」と結論づけることも慎重であるべきです。趣味として楽しむだけなら知識は必要ないことが多くても、保護すべき植物を扱う、危険な生物を見分ける、天体観測機器を安全に使うといった場面では、知識が役立つからです。
読者が自分で確かめられること
花や空を見たとき、最初にどんな色、形、音、動きへ心が動くでしょうか。何も調べない時間を持つと、見えてくるものはあるでしょうか。その後で対象の名前や仕組みを調べてみると、感じ方はどう変わるでしょうか。
感覚から入って知識へ進んでも、知識から入って感覚を豊かにしても構いません。順番を一つに決める必要がない、という読み方がこの短句から生まれます。
まとめ――星を見る眼に、資格はいらない
「花を愛するのに植物学は不要である」は稲垣足穂『横寺日記』に由来する言葉として紹介されます。さらに昆虫や天体へ続く文脈に目を向けると、単なる反知性主義とは異なる姿が浮かびます。知っているから愛せることもあれば、知らなくても愛せることがある。両者の間を自由に行き来する姿勢こそ、現代の読者が考えられるポイントです。
調査に用いた資料と検証状態
【刊本の書誌】CiNii Books『ちくま日本文学 稲垣足穂』(筑摩書房、2008年)。収録作として『横寺日記』が確認できます。国立国会図書館サーチ『稲垣足穂大全』第1巻にも同作品が掲載されています。
【掲載箇所の読書記録】『ちくま日本文学 稲垣足穂』の読書記録(2025年)、および同書の書評(2009年)。前者には花から昆虫・天体へ続く表現が引用され、後者は近接する天体への視点を紹介しています。ともに一次刊本の画像ではありません。
【出典状態】作品候補と文脈は確認、刊本原文の頁は要検証。書誌と引用を区別しています。
