自分の経験から見つけたことを、読み手に伝わる文章で書く。井上ひさしが文章教室で語ったこの考え方は、特別な才能を持つ作家のためだけの心得ではありません。日記、学習記録、仕事の報告書、研究やインタビュー記事にも応用できる問いです。けれども、誰にでもわかる文章とは何か、自分にしか書けないこととは何かを確かめずに格言として使うと、具体性がなくなってしまいます。
本記事では、出版社の公開資料で確認できる発言と書籍の内容から出典を整理し、「自分らしく書く」だけでも「言葉を簡単にする」だけでもない文章の作り方を考えます。
出典は『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』
新潮社の公式書籍ページに、著者を井上ひさしとする言葉が紹介されています。発売日は2001年12月26日、書名は『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(文学の蔵編)、新潮文庫、ISBN 978-4-10-116829-6です。出版社の案内には、「自分にしか書けないこと」を「だれにでもわかる文章」で書くという趣旨が明確に示されています。
もとの記事タイトルは「一番大事なことは」という形でしたが、出版社の紹介文では「作文の秘訣を一言でいえば」という文脈です。似た意味でも語り出しは一致しません。特定の版の逐語引用として長文を再掲するのでなく、出版社が確認できる形で紹介した趣旨を明示するほうが、読み手にとって確かめやすくなります。
「自分にしか書けないこと」とは珍しい経歴のことなのか
他人が経験していない大事件を探す必要はありません。同じ教室に参加しても、何を面白いと思い、何を怖がり、どんな失敗をして何を考えたかは違います。独自性とは必ずしも奇抜な発想ではなく、自分が何を見て、どう確かめたかを省略せず書くことから生まれます。
例えば「仕事で工夫しました」より、「どこで判断に迷い、何を調べ、どの条件で方法を変えたのか」を書いた方が、その人にしか語れない具体的な話になります。ただし業務上の機密や他人の個人情報をそのまま書いてよいわけではありません。経験を残すことと、守るべき情報を伏せることは両立します。
「だれにでもわかる」は、読み手を一人に決めて考えることから始まる
誰もが同じ知識を持っているわけではありません。ITに詳しい人への説明と、初めて触れる人への説明は異なるでしょう。「専門用語は絶対使わない」という単純な規則より、相手が何を知り、何を判断したいのかを把握することが大切です。必要な専門語には定義を添え、前提を飛ばさず、事例や条件を示します。
一方で、平易にするために根拠や例外を削りすぎると、重要な部分が失われます。例えば「どんな人でもすぐ使える製品」という言い方はやさしく見えても、初期設定や利用条件が必要なら誤解を生みます。分かりやすさは、曖昧な約束をするためではなく、読み手が誤らず判断するために求められるものです。
書き始める前の観察と、書いた後の推敲
新潮社の書籍紹介は、原稿用紙、題、段落の分け方に加えて、内容を具体的にすることを扱っています。さらに同ページに掲載された書評では、考え抜いたあとでいったん脇に置く書き方や、長く蓄えた経験が文章に現れる可能性が紹介されています。これは書評者による紹介ですから、本人の発言と完全に同じものとして混同しないようにします。
実務で試すなら、最初は一つの出来事を選び、「いつ・どこで・何が起きた・何を考えた・何が分からない」をメモします。次に、それを初めて読む人が分かる順序へ並べ直します。書いた本人には当たり前でも、読み手が知りえない事情は具体的に説明する必要があります。
AIで文章を作る時代に、何を自分で確かめるか
文章生成AIは表現の候補や段落の組み立てを考える助けになります。しかし、実際に経験していない出来事をAIにもっともらしく語らせ、それを自分の体験として発表すれば、この言葉が重視する固有性とは逆のことになります。AIに伝え方を相談しても、取材した事実・判断の理由・出典の確認は作り手が担うという分担を考えられます。これは井上本人がAIについて述べた教えではなく、現代への応用です。
作文・記事制作で使える四つの確認
①独自性:実際に自分で確認した事実や経験があるか。②対象読者:最初に読んでほしい人に前提が伝わるか。③出典:資料や他人の言葉を、自分の発言と混同していないか。④伝わり方:読者が読んだあとに、同じ内容を自分の言葉で説明できるか。これらは本サイトによる編集上のチェックで、著者が四項目を公式に定めたわけではありません。
「むずかしいことをやさしく」とのつながり
井上ひさしの別の標語として「むずかしいことをやさしく」があります。そちらは国立国会図書館が、こまつ座の雑誌『the座』14号(1989年9月)掲載の前口上を確認しています。前者が文章の固有性と伝達を考える手掛かりなら、こちらの標語は説明の深さと楽しさを考える手掛かりです。似た理念でも、出典となる出版物は別です。
まとめと参考資料
「自分にしか書けないこと」と「だれにでもわかる文章」は対立する条件ではありません。自分で見聞きした事実や経験を大切にしながら、読者が判断できる言葉へ整える。この二つを同時に意識すれば、単に目新しい文章でも、難解な文章でもない、届く表現を目指せます。
出典:新潮社『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』公式紹介(2001年12月26日刊、ISBN 978-4-10-116829-6)。国立国会図書館による別標語の出典調査。本記事は出版社の公開紹介文を直接確認しましたが、書籍の全ページを独立に閲覧したという意味ではありません。
