「ぎりぎりまで描く」は、徹夜を勧める言葉ではない
「なるべくギリギリまで描く」。植田まさしが『コボちゃん』の仕事について語ったとされる長い一節には、毎日の原稿を迎えに来るオートバイと、もう少し面白い作品を描けたのではないかという思いが登場する。ここで大切なのは、時間を延ばせば必ず質が上がるという法則ではなく、限られた納品時刻まで何を考え続けるかという制作の具体的な問題だ。
2020年ごろの本人の発言として名言サイトに長文が流通している一方、その一字一句が掲載された元のインタビューを今回は確認できなかった。しかし、2017年7月15日の文春オンラインによる本人のロングインタビューでは、毎日午後3時半に原稿を受け取りに来るバイク便と、翌朝に掲載される新聞漫画の制作日程が語られている。原稿受け渡しの仕組みは本人取材で裏付けられるが、長文全体の逐語初出は要検証である。
旧記事は長い言葉を仕事にも人生にも応用できる完璧主義の教えとして説明していた。けれども、植田は同じ取材で一日の生活リズムや、新聞で表現する際の配慮も語っている。「限界まで働くべきだ」という単純な物語にせず、漫画を毎日読者へ届けるための実際の工程へ戻して考えたい。
午後3時半のバイク便から逆算する仕事
2017年の取材によると、『コボちゃん』は原則としてその日に仕上げたものが翌朝刊に載る。植田は午前10時半ごろに起き、最初の時間を新聞連載の仕事に使い、午後2時から2時半ごろには仕上げると説明した。午後3時半にバイク便へ渡すという時刻も明らかにしている。遅くまで悩む自由が無制限にあったわけではなく、受け渡しという動かせない工程が存在した。
それ以外の時間には『かりあげクン』『おとぼけ部長代理』など別の作品のネタや原稿に取り組んでいたという。いくつもの連載を同時に抱える日常では、一本へ使える時間にも限界がある。長期連載の仕事は、一回だけの大傑作を目指す仕事とは異なり、次の日の原稿も生み出せる状態を守らなければならない。
植田は寝る時刻が午前3時半ごろでも、起床は午前10時半で七時間ほど眠っていると述べている。この具体的な説明がある以上、深夜まで働く部分だけを切り取って睡眠を削る模範にしてはならない。本人が選んだ独特の生活時刻と、あらゆる人へ推奨できる健康的な働き方は別である。
完成度だけでなく、新聞に載る責任を考える
取材で植田は、毎日描くこと自体のプレッシャーはそれほど感じなくなった一方、新聞という媒体で取り上げてよい内容には気を遣うと話している。社会面に載る漫画は、隣の記事が事故や事件を報じている可能性もある。描いた4コマが面白いかどうかだけでなく、掲載される場にふさわしいかを判断する責任がある。
実際に取材では、ニュースと漫画の題材が不適切に重ならないよう、季節に応じて差し替えられる作品が用意されているという説明があった。読者が目にするのは4コマの小さな枠でも、裏側には編集判断と予備の作品がある。納期と品質を両立させるには、最後まで粘る気迫だけでなく、予備の手立ても必要なのである。
したがって、「ぎりぎりまで描く」を無条件に仕事へ当てはめることはできない。たとえば校正、法務確認、安全確認が必要な制作物なら、作り手が最後まで抱え込むほど他の人の確認時間を奪う。締め切り直前の改良が有効なのか、それとも早めの共有が必要なのかは工程全体で判断するべきだろう。
毎日描くための発想の仕組み
2017年の別の文春オンライン取材では、植田の仕事場に多数のメモやアイデアノートがあることが紹介されている。たとえば、作品の考え方を確認する短冊を机の近くに置き、パソコンには発想を広げるためのチェック項目を表示していた。毎日のネタをその場の直感だけで探していたのではなく、考えるための手がかりを持っていた。
その際に紹介されたアイデアノートは496冊目だった。そこには連想を試したまま、結論が出ず途中でやめた案も残っている。書き始めたものが必ず作品になるわけではないことを受け入れ、多くの候補から使えるものを探すという仕事の一面が見える。
この点は「絵よりアイデアを先に考える」という関連記事で扱う発想の順序とつながる。技術、ネタの着想、読者へ届ける編集判断は、それぞれ別の力だ。締め切りまでの時間を有効にするのは、作業時間だけでなく、その前に蓄積した選択肢でもある。
「納得できるまで」を他人へ押し付けない
作り手が完成の直前まで表現を磨こうとするのは、仕事への愛着を示す場合がある。しかし、すべての仕事で時間を最後まで使うことが望ましいとは限らない。予定より早く提出して次の人へ時間を渡す判断にも価値がある。自身の納得と、共同作業に関わる人の都合を両方考えることが大切だ。

元の長い文の流通形は植田まさしの名言一覧で確認した。日課と午後3時半の原稿引き取りは文春オンライン2017年の本人取材第1回、メモとアイデアノートは同取材第3回・2ページと同3ページで確認できる。前者は引用の流通例、後者は本人の仕事を記録した取材であり、同じ証拠ではない。
『コボちゃん』の40周年を記念した中央公論新社の傑作選には、1982年に始まった長期連載から作品を選んだことが記されている。この歴史も、本人の言葉を「一度だけの追い込みの成功例」として読むことを戒めてくれる。毎日続く作品を生み出すには、締め切りと品質、そして次の日にも続けられる条件の三つを見ておきたい。