「人は二度死ぬ。最初は身体の生命が終わるとき、次はすべての人から忘れられるとき」。永六輔の名で流通するこの表現を、単なる「有名人になり、後世に名前を残そう」という成功の言葉として読むのは早計です。出典を調べると、永六輔の娘が父の言葉として紹介した挨拶を伝える資料があり、家族が故人を思い出すことという場面が見えてきます。同時に、短い流通文言の逐語的な原典や初出については、まだ確認が必要です。
家族が語った永六輔の「二度の死」
浄土真宗本願寺派の天真寺が2017年5月3日に公開した記事は、2016年のお別れ会で娘の永麻理さんが述べた挨拶を、テレビで紹介された内容として記録しています。そこでは、父は生前「人は二度死ぬ」という考えを口癖のように語っていたと説明されています。
記事によれば、一度目は身体の生命が終わること。二度目は、覚えていてくれる人も、時折その人の話をする人もいなくなったときに訪れる、という趣旨です。参照:天真寺「死んだっていうからおかしいんだよ。先に行っただけなんだから。永六輔さん」。
これは家族の証言にたどれる重要な根拠ですが、お別れ会当日の公式な完全書き起こしや映像を今回直接確認したわけではありません。実際の発言と、それを後年紹介した文章とを区別して扱います。
親鸞仏教センターが紹介する短い表現
人間は二度死にます。まず死んだ時。それから忘れられた時。
東本願寺・親鸞仏教センターの飯島孝良氏の論考「想いだされ続けるということ」は、永六輔がこの趣旨を繰り返し述べていたとして、上の短い形を紹介しています。親鸞仏教センターの論考。
同論考では、人を想いだすことや、他者から想いだされることの意味を、物語や宗教思想と結び付けて考えています。これは永六輔の初出資料ではなく、言葉が後にどう読まれたかを示す資料です。旧記事が「二度目の死」を人格や功績の競争に結び付けていたのに対し、記憶するという行為そのものが問いになります。
書名が似ている『二度目の大往生』は原典なのか
名言サイト「名言ナビ」は、この短い文章の出典として永六輔著『二度目の大往生』を挙げています。この著書が存在することは、大学図書館横断目録のCiNii Booksで確認できます。岩波新書、1995年10月刊、200ページ、ISBN 4-00-430410-5です。
参照:CiNii Books『二度目の大往生』、名言ナビの流通文言。ただし公開されている目次は「死」などのテーマを示すだけで、問題の一句の該当ページは確認できません。書名とテーマが近いことは、本文の完全一致を示す証拠ではありません。
同書は一般の人々の言葉を集めた部分と、永六輔の講演などを組み合わせた構成として紹介されています。著者名だけからすべての文章を永六輔本人が語ったと推定しない姿勢も大切です。
「二度目の死」は医学的な分類ではない
この表現は、身体の生命が終わることと、その人が誰からも記憶されなくなることを対比させています。しかし、後者は医学的・法律的な意味の死亡ではなく、残された人の記憶や語りの中で、人との関係が続くことを示す比喩です。
故人の話をしたり、遺された品物を見たり、教わった方法を誰かに伝えたりするとき、私たちはすでに会えない人を思い出します。それは本人が生きてきた影響の一つかもしれません。
ただし人間の価値は、人々に覚えられている人数や期間では決まりません。有名でなくても大切な人生がありますし、名前が忘れられたとしても、その人が生きた事実や意味がなくなるわけではありません。
記憶を残すことを、残された人への義務にしない
人が亡くなったとき、写真を見て語りたい人もいれば、しばらく触れたくない人もいます。思い出すことが支えになる場合も、痛みになる場合もあります。忘れない努力を義務として課したり、「記憶が薄れたら愛情が足りない」と考えたりする必要はありません。
永麻理さんの挨拶の紹介は、特定の家族が父との別れをどう表現したかを知る資料です。それをすべての人の悲しみの乗り越え方として決めつけないことが大切です。
書き残すことと正確な帰属の関係
人について語り継ぐとき、実際にその人が話したことと、周囲の人が後から意味を見いだしたことを分ける必要があります。そこが曖昧になると、意図していなかった名言が別の人物の人生観として広まることもあります。
関連する「愛の反対は無関心」の記事でも、永六輔が他人の言葉を収集した著者であることと、実際の発言者であることを区別しています。今回も家族の証言・後世の論考・書籍の書誌を別々の証拠として整理しました。
まとめ――人の記憶に残ることは、競争ではない
永六輔の「人は二度死ぬ」には、娘が父の口癖として紹介した挨拶を伝える資料と、親鸞仏教センターの別の紹介が存在します。したがって、永六輔が生前この考えを語っていたとする根拠はあります。一方、流通する短文の原文・初出・『二度目の大往生』掲載ページは未確認です。
この言葉を「後世に名を残すべきだ」という命令にするより、誰かの記憶や語りの中で関係が続くことを考える比喩として読みたいものです。
出典と未解決事項
【家族の挨拶を再掲した資料】天真寺、2017年5月3日付記事。
【思想的な受容と短い流通表現】親鸞仏教センター「想いだされ続けるということ」。
【書誌】CiNii Books『二度目の大往生』。
【二次的な出典案内】名言ナビ。
【未確認】最初の掲載・発話資料、1995年刊書籍内の該当ページ、お別れ会挨拶の独立した完全記録、表記異同。出典ステータス:文言変化・要検証。出典ステータスガイド。
