はじめに
「今回の人生ではやめておこう」。やりたいことが増えたとき、大橋巨泉の言葉として紹介されるこの一節は、どこかユーモラスだ。人間の欲は尽きない。だからこそ、すべてを追いかけるのではなく、やらないことを自分で選ぶという考え方が生まれる。
この言葉を「夢は諦めろ」という悲観的な忠告に変えてしまうのは惜しい。仕事、趣味、家族、学びなどをすべて同じ熱量で追いかければ、時間だけでなく集中力も足りなくなる。選ばなかったものに未練を残しすぎないための、軽やかな言い回しとして読める。
ただし、どの著作や発言記録からこの長文が引用されたのか、確かめる必要がある。名言として流通する文章と、本人が直接話した内容との距離を明確にしながら考えたい。
現時点で確認できる引用の記録
2016年7月20日のウェブメディア『grape』の記事は、大橋巨泉の言葉を紹介する企画で、人間の欲が多いこと、あれこれ追って結果的に「虻蜂取らず」になりかねないこと、そこで「今回の人生ではやめておこう」と考えることを掲載している。2016年の公開記事に、この言葉がまとまった形で掲載されていることは確認できる。
しかし、同記事はそれぞれの名言に具体的な初出の雑誌、書籍、番組やページ番号を付していない。この掲載記事を巨泉の直接インタビューと同一視することはできない。現段階の出典状態は「要検証」とする。
別の手がかりとして、2015年の『日豪プレス』本人インタビューは、著書の題名に「今回の人生では○○しない」を含むことを紹介している。ただし、題名が似ているだけでは、この一文がその書籍にあると証明できない。書誌の存在と引用の初出は切り分けて記録する。
大橋巨泉は実際に何を選んできたのか
巨泉はジャズ評論やテレビ番組の司会などで活動し、のちに海外で土産物店の経営も行った。2015年の本人インタビューによると、1973年から始めた事業を海外へ広げ、複数の国を生活の拠点としていた。仕事を一種類へ固定せず、自分の楽しみや事情に応じて暮らしを選んでいた。
同じ取材では、テレビの視聴率が伸びないときに回答者の数や設問の形式を変更するなど、番組の作り方を工夫したとも語っている。「諦める」とは、何でも投げ出すことではない。目指すものを選び、そのために方法を変えることもあったのだ。
一方、この経歴が長文の名言を生んだ直接の出来事だったとは確認できない。巨泉の人生を見て分かることと、当の言葉の成立事情は別である。本人の経験が一つの読み方を支えるとしても、由来を作り話で埋めないことが必要だ。
「虻蜂取らず」は何を戒めているか
「虻蜂取らず」は、二つを同時に捕まえようとして、どちらも逃してしまうことを表すことわざだ。欲しいものが多いのは自然なことだが、その欲求をどう扱うかによって、手元に残る成果は変わる。
例えば、一日に勉強、運動、副業、友人との時間をすべて最大限に入れようとすれば、睡眠や移動の時間が不足するかもしれない。重要なのは「全部を諦める」ことではなく、何を今週行い、何を来月に回し、何を今回は選ばないかを決めることだ。
もちろん、限られた選択肢しかない人に「望むことを減らせ」と言うのは違う。生活の困難は個人の優先順位づけだけでは解決しない。自由に選べる人の工夫と、選択肢を増やすために社会が果たす役割は別に考えるべきだ。
捨てることではなく、残すものを決める
やめることを決めると、時間や注意力が空く。それを何に使いたいかが分からなければ、ただ空白が増えるだけかもしれない。減らすことの目的は、残した活動を大切にすることだ。優先順位が決まると、断る理由も自分で説明しやすくなる。
また、今はしないと決めたものも、永久に禁止する必要はない。環境が変われば再開できる活動もある。「今回の人生では」という大げさな言い方の面白さは、実は目の前の選択を少し軽くしてくれるところにある。
人生の後半に限らず、若いうちからこの視点を持つことはできる。流行しているから、人に褒められるからという理由だけではなく、何を大切にしたいかを見直す。ただし、選び方の正解は人によって異なることも忘れずにいたい。
まとめ・引用の確認状況
「今回の人生ではやめておこう」は、2016年の『grape』の記事で大橋巨泉の言葉として紹介されている。本人の2015年インタビューには、近い表現を題名に含む著書への言及もある。しかし、流通する長い文章の一次原典、初出の版とページ番号は未特定であるため「要検証」とした。
参照:grape「大橋巨泉『どうせならビリを走れ…』歯に衣着せぬ大胆な名言」(2016年7月20日公開)/日豪プレス「独占インタビュー 大橋巨泉」(2015年6月8日公開)/ことわざ「虻蜂取らず」の意味(辞典検索)。関連記事:大橋巨泉「人間至る処青山あり」/出典の確認状態。
この言葉を、巨泉がどの時期に何を諦めたかという具体的なエピソードへ直接結びつける証拠は見つかっていない。ここでの実践例は、確認できる発言を手掛かりにした現代の解釈として区別する。
