「キリモミ商法」という名前だけを聞くと、強引な営業で市場をこじ開ける方法に思えるかもしれません。しかし、アシックス創業者の鬼塚喜八郎が語ったのは、大企業が広く扱う市場の中から、特定の競技の困りごとを見つけ、深く掘り下げて製品をつくるという戦略でした。
この発言には明確な原典があります。2004年6月号『ベンチャー通信』第10号の本人インタビューです。鬼塚はそこで「オニツカ式キリモミ商法」に加え、トップ選手の要求を満たすことから市場を広げる「頂上作戦」も説明しています。両者をひとまとめの「集中力が大切」という標語にすると、実際の顧客開発の工夫が失われます。
出典:2004年6月の鬼塚喜八郎本人インタビュー
『ベンチャー通信Online』掲載の「一点突破、全面展開」は、鬼塚が85歳を過ぎて応じた本人取材を公開しています。2004年6月号第10号の掲載であると明記されており、発言者だけでなく質問の内容も確認できます。最後に若い起業家への助言を求められた鬼塚は、大企業の網の目に残る市場の隙間を見つけ、独自の技術で応えることを提案しました。
その具体的な方法として、対象を一点へ絞り、その領域の消費者が求めるものを深く理解して製品化する考え方を述べています。元の記事タイトルでは長い回答をほぼそのまま引用していましたが、ここでは必要な短い言葉だけを示し、本人が説明した仕組みと事実関係を分けて考えます。
なぜ「一点」を深掘りしたのか
創業直後の小さな企業が、あらゆる競技の靴を同時に開発し、大量に宣伝し、全国へ届けようとしても、資金や人材が足りないことがあります。幅広い市場で既存の大企業と同じ方法をとれば、商品が目立たなくなる可能性もあります。
そこで鬼塚が考えたのは、限られた分野で、選手が本当に欲しい性能を徹底して調べることでした。これは単に『製品の種類を減らす』という発想とは違います。競技者の動きと要求を理解し、他の製品では満たせない必要を見つけることが先にあります。
アシックスの公式沿革によれば、鬼塚の会社が1949年に創業した際、社員は2人でした。1950年に最初の競技用シューズとして発売したのはバスケットボールシューズです。強豪校へ何度も試作品を持ち込み、検証と改良を繰り返したとされています。この経緯は、後年語ったキリモミ商法の実践を理解するうえで具体的な裏づけになります。
「頂上作戦」は、キリモミ商法と何が違うのか
鬼塚の説明には、もう一つの方法があります。特定競技の中でも、まず高い競技力を持つ選手のニーズを聞き、商品をつくり、そこで評価された技術や製品をほかの層へ広げていくという「頂上作戦」です。
キリモミ商法がどの市場を攻めるかという範囲の選択に関わるのに対し、頂上作戦は選んだ市場の中で誰から要求を学び、どの順序で浸透させるかに関わります。似ていますが、完全に同じものではありません。
競技のトップ選手には、より高い性能や細かな使い勝手を求める人がいます。その要求に応える技術ができれば、他の選手にも価値を認めてもらえる可能性があります。ただし、トップ選手が好む商品が初心者にも必ず適しているわけではありません。競技力や身体条件が違えば、価格や使いやすさの調整も必要です。
バスケットボールシューズは試作と失敗から生まれた
1950年の最初のバスケットボールシューズは、当時難しいと考えられていた分野に挑戦した製品でした。次の1951年には、タコの吸盤をヒントにした靴底を採用したシューズも発売しています。
ただし、アシックスの沿革では、吸着力を高めた結果、止まりすぎるという問題も生じたと説明されています。性能を高めればそれで完成ではありません。競技者の動きに応じた適切なバランスが必要であり、実際の強豪校での検証によって修正が加えられました。
この過程を読むと、「市場の一点に集中する」とは、狭い分野で自己満足の製品をつくることではなく、顧客が実際に使った結果に基づいて技術を磨くことだと理解できます。
一点集中は、事業を一生ひとつに固定する意味ではない
「バスケットボールだけをつくれ」という話を、永久に別の競技へ進出してはいけないという命令として読むのも正しくありません。アシックスの公式沿革を見ると、1950年代にはマラソン、レスリングなどの専用シューズへ領域を広げ、1960年代にはさらに多様なスポーツ用品を開発しています。
大切なのは、創業初期に限られた力を使って学びを深め、次の市場へ応用できる技術と経験を築くことだったと考えられます。ただし、その展開が単一の手法だけで説明できると断言するのも行きすぎです。商品の性能、販路、資本、競技の変化など多くの条件があります。
小さな会社が実践するなら何を確かめるか
まず、競争相手が十分に満たせていない利用者の課題を見つけられるか。次に、その課題が特定の競技・場面でどのくらい深刻なのかを聞き、実際に試せる製品やサービスへ落とし込めるか。そして、改善を重ねるための資金と技能を持続的に確保できるかを考える必要があります。
ここで『一点集中すれば大企業に勝てる』と確約することはできません。需要が少なすぎたり、収益が成り立たなかったり、競合が簡単に参入できたりする場合もあるからです。市場の深さと、経営の持続可能性を同時に判断しなければなりません。
この問いの整理は当サイトによる現代的な応用です。鬼塚が現在のSaaSやBtoBマーケティングに適用できる万能の公式を語ったという意味ではありません。
使命と市場の選択をつなぐ
同じ取材で鬼塚は、金儲けだけを目的にするのではなく、青少年の健全な育成を事業の目的としたことも語っています。市場の一部を深掘りする技術的な方法と、何のために事業をするかという目的は異なる次元の問題です。
目的については「鬼塚喜八郎が語った起業の使命」、利益との関係は「儲けだけでは続かない商売」、長く持ち続ける意志については「終生の志」で扱います。本記事では、市場を絞る方法と顧客から学ぶ順序に焦点を当てています。
出典・監査結果
出典状態:本人インタビューで確認済み。表記の細部には編集差あり。① 『ベンチャー通信』第10号(2004年6月)インタビュー後半――キリモミ商法、隙間商法、頂上作戦を本人が説明した部分。② アシックス公式沿革――1949年創業、1950年バスケットボールシューズ、1951年吸着盤型の改善、後の競技分野拡大。
旧記事では一点集中を単純な自己啓発や努力論に広げていましたが、今回は競技の絞り込み、トップ選手への調査、試作・改良、次の市場への展開という具体的な工程を区別しました。2004年の回想と創業当時の記録との間には時間差があるため、製品発売年などの事実は公式沿革で照合しています。
出典の確認方法については出典監査索引をご覧ください。
