「健全なる身体に健全なる精神が宿る」。アシックス創業者の鬼塚喜八郎がスポーツ教育の意義を語ったときに用いた、よく知られる表現です。しかし、この日本語だけを読むと、身体が健康であれば心も必ず健全になる、という単純な因果関係に聞こえてしまいます。これは原語の意味とも、鬼塚が語ったスポーツ教育の内容とも、同一ではありません。
鬼塚が実際に語った内容は、2004年6月号『ベンチャー通信』第10号の本人インタビューで確認できます。また、アシックスの社名は、ラテン語の祈願を表す言葉からつくられています。今回は、鬼塚の発言、古代ローマの原典、企業が受け継いだ理念を三つに分けて読み直します。
原典① 鬼塚本人は、堀公平から教わったと語っている
『ベンチャー通信Online』の鬼塚喜八郎インタビュー(2004年6月号)で、聞き手は青少年育成のためになぜスポーツを重視したのかと尋ねています。鬼塚は、戦友の堀からスポーツの大切さを教わったと答え、心身のバランスだけでなく、競技が人間の成長に関わる理由を続けて説明しています。
この回答で鬼塚が重視した要素は、ルールを守ること、礼儀、全力で取り組むこと、チームワーク、そして自分を磨くことでした。単に走れば性格がよくなるという話ではありません。人と競い、協力し、失敗から学ぶ過程に教育的な意味を見いだしていたのです。
ただし、ここで確認したのは2004年に鬼塚本人が語った創業の回想です。1940年代に堀がこの言葉をどのような形で伝えたかまで、当時の録音・手紙・日記を確認したわけではありません。
原典② アシックスの名前に残った「健全な心身への願い」
アシックスの公式沿革によると、鬼塚が戦友の堀公平から教わったのは、古代ローマの風刺作家ユウェナリスの言葉でした。それがスポーツによる青少年の健全な育成を目指す大きな動機の一つになったと説明されています。
アシックス公式のブランド・商標紹介は、社名ASICSがAnima Sana In Corpore Sanoの頭文字に由来すると明記しています。同社が掲げる訳は、身体と精神の健康が「あれかし」という願いの形です。1977年のアシックス発足時にも、この理念が社名に込められました。
「健康な身体には健康な精神が自動的に宿る」という断定ではなく、心身の健康をともに願うというニュアンスが大切です。創業理念は、運動していない人の人格を否定したり、病気や障害のある人を低く評価したりするための言葉ではありません。
古代ローマの言葉では、実際には「祈るべきもの」が主題
この句をさかのぼると、ユウェナリス『風刺詩』第10篇の一節へ行き着きます。よく引用されるラテン語はmens sana in corpore sanoですが、原文にはその前にorandum est ut sit(そのようにあることを祈るべきだ、という趣旨)という部分があります。
ジョン・ドライデンによるユウェナリス第10篇の翻訳を掲載する資料は、この句が「健康な心身は祈り求めるものだ」という祈願の文脈にあることを説明しています。古代の文章で、運動能力のある人ほど精神的に優れていると証明した、という意味ではありません。
なお、原典としてのラテン語mens sanaと、企業名の由来として使われるanima sanaは、文字どおり同じ綴りではありません。アシックス自身は後者を社名の由来と説明しているので、古典原文・社名用の表現・日本語の通俗的な訳を混同しないことが必要です。
鬼塚が語った「ルール」と「礼儀」
2004年のインタビューでは、スポーツを通じてまずルールを守る重要性を知ると語っています。競技には共通の約束があり、それを無視すれば対戦や協力は成り立ちません。さらに、相手への礼儀を挙げ、人と人が関わりながら成長していくことにも意味を見いだしていました。
ただし、スポーツをしていれば誰でも自然に他者を尊重するようになる、という保証はありません。ルールが不公正な場合もあり、競技の現場で暴言や排除が起こることもあります。スポーツが教育的な場になるかどうかは、競技だけでなく、指導者や参加者の振る舞いにも左右されるでしょう。
ベストを尽くすことと、結果だけを重視しないこと
鬼塚は、スポーツで全力を尽くすことが新しい技能の獲得や、負けた後に再び挑む意欲につながると説明しています。勝ち負けがある世界だからこそ、結果を振り返り、次へ向かう機会が生まれるという考えです。
一方、勝利だけを目的にして怪我や健康を軽視すれば、心身の健全さを目指す理念と衝突します。「ベストを尽くす」と「限界を超えるまで無理をさせる」は同じではありません。成長のために休息や安全を考えることも、スポーツ教育には欠かせないでしょう。
チームワークと、本人の価値観を考える
インタビューで鬼塚は、川上哲治監督からチームワークの重要性を聞いたという逸話も紹介しています。優秀な選手が個人の力を発揮するだけでは、チームとしての勝利につながらない場合があるという話です。
ただし、取材の中で語られた監督との昔の問答を、当サイトが別の当時の一次記録で照合したわけではありません。鬼塚がチームワークを重視していたことを示す本人の回想として扱います。
チームの目標のために役割を担うことと、自分の体調や安全を犠牲にすることも区別すべきです。協力とは、一人の負担にすべてを押しつけることではありません。
1949年の創業と、その後のものづくり
アシックスの公式沿革によれば、鬼塚は1949年に神戸で会社を立ち上げ、1950年に最初のバスケットボールシューズを発売しました。強豪校で試作を試し、1951年には吸着盤型の靴底を改良しています。
教育を大切にするという理念だけでは、選手が安全に使える道具は完成しません。身体の動きと競技の条件を観察し、試作品の問題を直す工程が必要でした。ここでは理念と技術開発が、実際の利用者を通じて接続されています。
現代の読者が注意したいこと
「健康な身体には健全な精神が宿る」という短縮した言葉を、精神的に困難を抱える人が運動不足だからだ、というように使うのは適切ではありません。身体や心の状態には多くの条件が関わり、運動の効果も個人差があります。
子どもの教育について考えるなら、運動する機会と同時に、安全、本人の意思、休息、人間関係、適切な指導を整えることが重要です。鬼塚の発言を、すべての子に競技を強制する根拠にするべきではないでしょう。
出典と今回の監査判定
出典状態:鬼塚本人の取材発言は確認済み。ラテン語原典と日本語訳には文言差があります。① 『ベンチャー通信』第10号(2004年6月)前半――鬼塚による堀の教えとスポーツ教育の五つの論点。② アシックス公式沿革――堀公平、創業年と社名の背景。③ アシックス公式ブランド・商標――社名の綴りと祈願の訳。④ アシックススピリット――現在の企業理念。⑤ ユウェナリス第10篇の翻訳・解説資料――祈願という古典の文脈。
以前の記事は一般的な心身の健康論に寄り、創業時の意味、ラテン語の祈願形、ASICSという社名の綴りを区別していませんでした。今回は本人の取材と会社の公式情報、古典の文脈を分けて読者が確かめられる形にしました。関連する「鬼塚喜八郎の起業の使命」では、創業の動機をより詳しく扱っています。
出典監査の全体方針は出典監査索引をご覧ください。
