「罠をかける者も卑しい。が、それにかかる者もやっぱり卑しかったのだ。」という言葉は、菊池寛の長編小説『真珠夫人』に登場します。作者が読者へ直接説いた独立した格言ではありません。家族を苦境に陥れた事件を打ち明ける父親が、娘の瑠璃子に向かって自分を責める台詞です。
原典は『真珠夫人』の「罠」
青空文庫の菊池寛『真珠夫人』(新字新仮名版)で、該当箇所を確認できます。章題は「罠」、該当する台詞はその中の「三」の終わり近くにあります。青空文庫の作品情報によれば、『真珠夫人』は1920年6月から12月に新聞連載されました。今回直接確認したのは公開テキストであり、当時の新聞紙面そのものではありません。
誰が、どんな状況で言ったのか
娘の瑠璃子と暮らす父は、経済的な苦境に立たされています。そこに旧知の木下が訪れ、預かってほしいと高価な掛軸を持ち込みます。父はその品を一時的に金策へ利用しました。しかし掛軸の本当の持ち主は、父を追い詰めていた荘田でした。父は、仕掛けられた罠の存在と、自分が誘惑に負けて他人の品を流用してしまったことを瑠璃子に明かします。
事情を尋ねられた父は、娘の目さえ避けるようにして、自分の行為を恥じます。つまりこの一節の「かかる者」は、危害を受けた人一般ではなく、他人から預かった財産を無断で金策に使ってしまった作中人物自身を指しています。
原文を確認する
罠をかける者も卑しい。が、それにかゝる者もやっぱり卑しかったのだ。
出典:菊池寛『真珠夫人』「罠」。原文には歴史的仮名遣いを残す「かゝる」という表記があります。よく見かける「かかる」や、接続の「が」を前半に付けた引用は読みやすく整えられた流通形です。
自責の言葉と、加害者への非難は両立している
父が自分を「卑しい」と呼んでいるからといって、罠を仕掛けた側の責任を免除しているわけではありません。続く告白では、荘田が金に困った父を追い詰め、旧知の人物まで巻き込んで罠を仕掛けたと語られます。一方で父は、自分も目先の金に心を動かされ、預かり物を利用した事実から逃れません。
この場面には、相手の悪意と、自分の判断への悔恨を同時に語る苦しさがあります。単に「騙された人も悪い」という一般論へ置き換えると、人物の立場と事件の具体性が失われます。
「騙された人にも責任がある」という一般論にしてはいけない
現実の詐欺や搾取では、被害者が責任を負わないことも少なくありません。権力差、情報の欠如、脅迫などによって、適切な判断が難しくなる場合もあります。小説内の父は「自分が預かり物を無断利用した」と告白しているからこそ、本人の自責に特定の意味が生じます。被害者を一律に責める根拠として、この台詞を使うことはできません。
現代で読むなら――責任を分けて考える
この場面を仕事や日常生活に引き寄せるなら、誰かに不正な取引を持ちかけられたとき、誘いを仕掛けた側の問題と、自分が実際にした行為を分けて点検する視点につながります。ただし、それは作品を踏まえた当サイトの解釈であり、菊池が具体的な企業倫理の方法論を示したという意味ではありません。
責任を考える際には、何が起きたのか、何を知り得たのか、本人にどんな選択の余地があったのかを確かめる必要があります。『真珠夫人』の一節は、その複雑さを消して「騙される方も悪い」と片づけるためではなく、自責と他者からの加害が同時に存在し得ることを考える入口になります。
出典と確認範囲
出典状態:出典確認済み。菊池寛『真珠夫人』「罠」の中で、瑠璃子の父が娘へ語る台詞です。作者本人の独立した格言ではなく、人物の境遇と告白を踏まえて読む必要があります。新字新仮名版の公開本文を確認し、同じ場面を青空文庫の旧仮名版でも参照しました。新聞初出の現物は直接照合していません。
原典:『真珠夫人』新字新仮名版 / 『真珠夫人』新字旧仮名版(ともに青空文庫)。
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