孤独な戦いの中で、なぜ「顧客」が見えなくなるのか
日々のタスクに追われる中で、「ターゲット設定」が形骸化していないでしょうか。マーケティングの成果が出ない時、多くの担当者がペルソナの見直しを行いますが、属性を細かく定義すればするほど、顧客の実像から遠ざかるというパラドックスに陥りがちです。
中小企業やベンチャーの「ひとりマーケター」として、施策の立案から実行までを一手に担うあなたは、誰よりも顧客のことを考え、行動しているはずです。しかし、メールの開封率が上がらない、LPのコンバージョンが停滞している、といった壁にぶつかった時、こう考えたことはないでしょうか。「30代男性、管理職、ITリテラシー中級…ターゲットは合っているはずなのに、なぜ響かないのか」と。
この問題の根本原因は、あなたのスキル不足でも、商材の魅力不足でもありません。顧客を「属性(Attribute)」の集合体として捉え、その裏にある「因果関係(Causality)」を見落としているという、構造的な認識のズレにあります。本稿では、クリステンセン教授が提唱した「ジョブ理論(Jobs to be Done)」をベースに、顧客が購買に至る本当のメカニズムを解き明かします。これは、リソースの限られたマーケターこそが身につけるべき、最小の労力で最大の納得感を生むための思考法です。
「属性」ではなく「状況」が人を動かす:ジョブ理論の本質的理解
人は「属性」によって商品を買うのではなく、特定の「状況」において発生した「片付けたい用事(Job)」を解決するために、商品を「雇用(Hire)」します。この視点の転換こそが、マーケティングの解像度を劇的に高めます。
従来のマーケティングでは、「誰が(Who)」買うのかに焦点を当ててきました。しかし、ジョブ理論では「なぜ(Why)」買うのか、その因果関係を重視します。有名なミルクシェイクの事例を思い出してください。朝の通勤客は「退屈な運転時間を紛らわせ、昼まで空腹を満たす」というジョブのためにミルクシェイクを雇用し、午後の父親は「子供に対する後ろめたさを消し、良き父として振る舞う」というジョブのために同じ商品を雇用していました。
ここで重要なのは、顧客の属性(年齢、性別、職業)は何も変わっていないということです。変わったのは「状況」です。ひとりマーケターが陥りがちな失敗パターンとして、「詳細なデモグラフィック情報(年齢・年収・居住地)を埋めたペルソナシートを作成し、それで顧客を理解したつもりになる」ことが挙げられます。しかし、属性は相関関係を示しても、購買の因果関係までは説明してくれません。「30代の男性だから」商品を買うのではなく、「特定の課題に直面し、それを解決して前進したいから」商品を買うのです。この「状況」への着眼こそが、刺さるメッセージを生み出す第一歩です。
顧客が商品を「雇用」するメカニズム:4つの力を読み解く
顧客が現状を打破し、新しい解決策(あなたの商品)を採用しようとする時、そこには「4つの力」が働いています。これらを構造的に理解することで、打つべき施策の優先順位が明確になります。
顧客の購買意思決定は、以下の2つの相反する力の綱引きで行われます。
1. 現状からのプッシュ(Push): 今のやり方に対する不満や問題点。「今のシステムは遅くて仕事が終わらない」といった痛みです。
2. 新商品からのプル(Pull): 新しい解決策に対する魅力や憧れ。「このツールなら業務が半減するかもしれない」という期待です。
3. 変化への不安(Anxiety): 新しいものを導入することへの懸念。「使いこなせなかったらどうしよう」「導入に失敗したら責任問題だ」という恐れです。
4. 現状への愛着・慣習(Habit): 慣れ親しんだやり方への固執。「Excelでの管理は面倒だが、今のままでもなんとかなっている」という惰性です。
ここでの教訓は、「プル(商品の魅力)」をアピールするだけでは不十分だということです。多くのマーケティング施策が失敗するのは、機能やメリット(Pull)ばかりを叫び、顧客が抱える「不安(Anxiety)」や「慣習(Habit)」という強固な岩盤を無視するからです。特にB2Bや高額商材においては、機能的なジョブだけでなく、「社内で失敗したくない」という感情的・社会的ジョブが強く作用します。これら4つの力のバランスを見極め、阻害要因を取り除くことこそが、プロフェッショナルなマーケターの仕事です。
現代のB2Bマーケティングにおける「進捗」の設計とテクノロジー活用
原理原則を理解した上で、現代のテクノロジーをどう活用すべきか。AIやオートメーションは、顧客の「ジョブ」を代替、あるいは発見するための強力な武器となりますが、使い所を誤ってはいけません。
ジョブ理論において重要なキーワードは「進捗(Progress)」です。顧客は単に課題を解決したいだけでなく、今の自分よりも「より良い状態」へ進みたいと願っています。現代のB2Bマーケティングでは、AIを活用してこの「進捗」を支援することが可能です。例えば、生成AIを使って顧客インタビューの議事録から「機能的な要望」を抽出するのではなく、「どのような状況で、どのような感情の変化(不安→安心)を求めていたか」という文脈を抽出させるのです。
また、MA(マーケティングオートメーション)のシナリオ設計においても、「資料請求した人」という行動履歴だけでなく、「どのような課題(ジョブ)を持ってサイトを訪れたか」という仮説に基づいて分岐を作ることが重要です。よくある失敗は、「最新ツールを導入したが、送っているメールの内容が全ターゲット一律の製品自慢になっている」ケースです。ツールはあくまで手段です。顧客が抱えるジョブ(例:上司への報告資料を早く作りたい)を特定し、その「進捗」を助けるコンテンツ(例:比較表テンプレートの提供)を届けるためにテクノロジーを活用してください。
解像度を高めるための「問い」:機能の裏にある物語を視る
「何が欲しいですか?」と聞いてはいけません。顧客自身も、自分が本当に解決したいジョブを言語化できていないことがほとんどだからです。プロのマーケターは、問いの質を変えることで深層にアプローチします。
解像度を高めるためには、時系列(タイムライン)に沿ったドキュメンタリーのような視点が必要です。「その商品を探し始めたきっかけは何か?」「購入を決める直前に、他に検討した選択肢は何か?」「最終的に何が決め手となって、既存のやり方を捨てたのか?」。これらの問いを通じて、顧客が購買に至るまでの「物語(ナラティブ)」を再構成します。
ここで意識すべきは、「ビッグ・ハイア(Big Hire)」と「リトル・ハイア(Little Hire)」の視点です。商品の購入という大きな雇用(Big Hire)に至るまでには、メールを開封する、リンクをクリックする、資料を読むといった小さな雇用(Little Hire)の連続があります。それぞれのタッチポイントにおいて、顧客は「次のステップに進むためのジョブ」を持っています。例えば、メルマガのジョブは「商品を売ること」ではなく、「有益な情報を得て、今の業務のヒントを得ること」かもしれません。この微細なジョブの一つひとつに対して誠実に回答を用意することが、結果として大きな成果(コンバージョン)につながります。
まとめ:マーケターとは、顧客の「より良き明日」への案内人である
マーケティングとは、商品を売りつける技術ではなく、顧客が望む「進捗」を支援し、彼らがたどり着きたい場所へ導くことです。ジョブ理論は、そのための羅針盤となります。
日々、孤独に数字と向き合う中で、迷いが生じることもあるでしょう。そんな時は、画面上の数値やペルソナシートから一度目を離し、「今、顧客はどんな状況にいて、どんな用事を片付けたいと願っているのか?」と問いかけてみてください。属性という静的なラベルではなく、状況という動的な文脈に目を向けることで、打つべき施策は驚くほどシンプルで、かつ本質的なものになるはずです。
「顧客はドリルではなく、穴を求めている」という有名な格言がありますが、さらに踏み込めば、「なぜ穴をあけたいのか?(棚を取り付けて部屋をきれいにし、家族と快適に過ごしたいから)」という上位のジョブが存在します。ひとりマーケターであるあなたの仕事は、単にドリルを売ることではなく、その先にある顧客の「快適な生活」や「成功したキャリア」という未来を実現させることです。その視点を持てた時、あなたのマーケティングは、単なる業務から、誇りあるプロフェッショナルの仕事へと昇華されるでしょう。