『徒然草』第60段「盛親僧都と芋頭」|奇行を許された僧と「徳」の意味

『徒然草』第60段の主人公は、盛親僧都(じょうしんそうず)という学識ある僧です。芋頭(いもがしら)を愛し、手にした財産を芋頭のために使い、食事や睡眠の時間も人に合わせない。いかにも人間関係で摩擦を起こしそうな人物なのに、結末では、人に嫌われず、さまざまなことを許されていたと語られます。笑える奇行の列挙の最後に置かれた、人物の「徳」への問いまで読むことで、この段の印象は変わります。

原典:『徒然草』第60段「真乗院に盛親僧都とて」

やたがらすナビ『徒然草』第60段では校訂本文と古写本の翻刻を確認できます。翻刻には早稲田大学図書館の画像へのリンクもあり、別の公開本文とも照合できます。本文の語りと、現代に引き寄せた解釈は区別して紹介します。

芋頭が好きすぎて、講義中にも食べる

盛親僧都は、芋頭を非常に好みました。講義の席でさえ、大きな鉢にうずたかく盛り、食べながら書物を読む。人と分け合うこともせず、一人で食べていた、と語り手は記します。

体調が悪いときは、七日や十四日ほど籠り、よい芋頭を選んで多く食べ、それによって病を治したという話まで続きます。これは中世の人物についての逸話であって、芋頭の医療効果を科学的に示した記録ではありません。健康上の問題への対処法として真似るべきだという意味でもありません。

冒頭で驚かされるのは、単に好きなものがあることではなく、周囲の決まりや場の雰囲気があっても、盛親僧都は自分の食べたいものを食べる、という徹底ぶりです。

300貫の財産を、芋頭のために使い切る

僧都はもともと非常に貧しかったものの、師から銭二百貫と僧坊一つを譲り受けます。さらに坊を百貫で売り、合計三百貫を得たと書かれています。これを「三万疋」とも表記し、芋頭の購入資金に決め、京の人に預けて必要な額を受け取りながら使いました。

ほかの用事へ転用することなく、その資金は芋頭を食べるために尽きた、と本文は続きます。今日のお金に換算して衝撃的な数字を作る必要はありません。注目したいのは、生活のさまざまな用途に振り向けられる資金を、本人が一つの好物のために使いきったという極端な選択です。

人々は、それほどの財産を得ながらこのような使い方をするとは、実に稀な道心者だ、と評したと書かれています。褒め言葉に見えると同時に、語り手の可笑しみも感じられる部分です。これをただ「浪費は正しい」と受け取る必要はありません。

意味の分からないあだ名「しろうるり」

別の法師を見て、盛親僧都は「しろうるり」という名前を付けます。意味を聞かれると、本人もそれが何であるか知らない、もしあるならこの僧の顔に似ているだろう、と答えます。意味が先にあるのではなく、目の前の人物を見て浮かんだような言葉です。

ここで「しろうるり」を現代の特定の器物や病名へ無理に結びつけると、原文の面白さが失われます。本文では、名付けた本人さえ意味を知らないという応答が笑いを生むのです。知識に優れた僧の口から、説明できない造語が出てくる。その意外さも人物像の一部になっています。

食事も睡眠も、人に合わせない

後半では、盛親僧都の暮らしぶりがさらに列挙されます。宴席で自分の膳が出れば、ほかの人を待たずに食べる。帰りたくなれば先に帰る。決まった食事の時刻にも合わせない。眠たくなれば昼でもこもり、起きていれば夜を通して過ごす。大事な用件でも、人の言うことをすぐには受け入れません。

現代の職場や共同生活へ、そのまま行動規範として持ち込めば困ることもあるでしょう。時間を守らないことや他人の都合を無視すること自体が、立派な人格を証明するわけではありません。この段では、そうした振る舞いをする人物が、にもかかわらず許されていたという逆説が語られています。

なぜ許されたのか──最後の「徳の至れりけるにや」

盛親僧都は外見もよく、力が強く、書に優れ、学識も深く、説法にも長じた人物として描かれます。寺内でも重んじられる一方、「世を軽く思ひたる曲者」と言われます。個性が強いだけの人でも、権威があるだけの人でもない、重層的な人物像です。

結末は「人に厭はれず、よろづ許されけり。徳の至れりけるにや」。嫌われず、いろいろな行動を許されていたのは、徳がそこまで達していたからなのだろうか、という言い方です。「にや」と推量を含むため、作品が一義的に原因を証明しているわけではありません。

ここで「専門能力が高ければ迷惑をかけても許される」と直結させるのは危うい読みです。周囲に受け入れられていた事実と、その理由として考えられる徳の高さが、少し距離を置いて語られています。だからこそ、現代の読者も「何をもって人は許し、信頼するのか」と考えられます。

第58・59段と比べると、別の角度から見えてくる

第58段と第59段では、出家を重んじ、欲や世俗の用事に引かれることを厳しく戒めていました。第60段では、芋頭を強く好み、周囲の慣習から外れているにもかかわらず、徳のある僧として重んじられる人物が語られます。

この二つの調子を見比べると、『徒然草』が一つの命令だけを反復する教訓集ではないことが分かります。ただし、三つの段が作者によって意図的に一組として構成されたとまで断定するには、編纂や伝本についての研究が必要です。ここでは隣り合う文章を読み比べた読者の視点として紹介します。

現代に向けた三つの問い

第一に、常識から外れた行動を見たとき、その人の能力や周囲との関係を見ずに判断していないか。第二に、ある分野に強い能力があることと、ほかの人への配慮を必要としないことを混同していないか。第三に、相手を受け入れる自由と、周囲の負担への説明責任の間をどう考えるか。

これは現代の人間関係を考えるための応用であって、兼好が「個性を認めればすべて解決する」と述べた証拠ではありません。奇行を笑いながら、最後には人物を簡単には決めつけられない。そうした余韻が、この段の豊かさではないでしょうか。

まとめ

『徒然草』第60段の盛親僧都は、芋頭を偏愛する豪快な人物として登場します。しかし、食事や生活の習慣を人に合わせない話を読み進めると、最後に「人に嫌われず、徳が高かったからなのだろうか」と問われます。普通の行動から外れていることと、人物の価値を一つの尺度で測ることは同じではありません。複雑で少し滑稽な人物像として読むと、短い逸話の奥行きが見えてきます。

原典・確認範囲

やたがらすナビ『徒然草』第60段 — 校訂本文・古写本翻刻、所蔵画像への参照先。

Wikisource:『徒然草(校註日本文學大系)』 — 公開された別本文との確認用。

出典状態:作品・章段を確認済み。芋頭の食べ方は歴史的逸話として紹介し、現代医学の助言としては扱っていません。

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