はじめに――『緋色の研究』はホームズとワトソンの出会いから始まる
シャーロック・ホームズとワトソンは、初めから名コンビだったわけではありません。アーサー・コナン・ドイルの1887年刊『緋色の研究』(A Study in Scarlet)では、二人がロンドンで住まいを探して出会うところから物語が始まります。有名な探偵が最初にどのような人物として描かれたかを知るには、この一冊が欠かせません。
事件の現場には遺体とともに、壁に血で書かれた「RACHE」という文字が残ります。刑事たちは意味を推測しますが、ホームズは証拠の一つとして別の解釈を示します。奇妙な文字を手がかりに、何を知っていて何を知らないのかを整理する推理が展開します。
この記事は1887年に発表された原作の英語本文を参照し、二人の出会い、連続する事件、犯人の動機と結末まで解説します。後年のドラマで定着した人物像を原作へさかのぼって混ぜず、最初の作品の構成を見ていきます。結末まで触れるため、未読の方はご注意ください。
二人の出会い――ベーカー街221Bに住み始めるまで
冒頭で語り手のジョン・H・ワトソンは、軍医としてアフガニスタンへ赴いた後、負傷と病気を経験して英国へ戻ったと説明します。ロンドンでの生活費を抑えるため、同居相手を探していました。探偵の助手を募集した広告に応募したのではなく、住居を共有するためにホームズと出会ったのです。
ワトソンは知人スタンフォードの紹介で、病院の化学実験室にいたホームズと会います。ホームズは彼を見て、アフガニスタンから帰ってきたと推測します。相手をよく観察し、持っている知識と照合する人物だと、最初の場面から読者に印象づける仕掛けです。
二人はベーカー街221Bの部屋に入居します。ワトソンはホームズの知識の偏りや実験への熱中ぶりに興味を持ち、やがて彼が相談を受けて事件を解く仕事をしていると知ります。友情は最初から完成しているのではなく、共同生活と事件を通じて少しずつ形成される関係として描かれます。
ロンドンの殺人事件――「RACHE」は何を意味したのか
ローリストン・ガーデンズの空き家で、アメリカ人イーノック・ドレッバーの遺体が見つかります。外傷は目立ちませんが、壁には「RACHE」と書かれ、女性の指輪など奇妙な手がかりが残されています。見た目に矛盾する情報をどう結びつけるかが、事件の最初の問題です。
警察側は「RACHE」を女性の名前Rachelを書きかけたものではないかと推測します。一方ホームズは、ドイツ語で「復讐」を意味する語だと指摘します。ただし、それだけで犯人の正体が確定するわけではありません。単語の意味を知ることと、なぜそこに書いたのかを解明することは違うからです。
やがてドレッバーと行動を共にしていたジョセフ・スタンガスンも殺されます。二つ目の事件によって、別の人物への疑いは揺らぎ、両事件に同じ犯人が関わっていると考える理由が強まります。一つの説を守るのではなく、新しい事実が現れたら推理を修正する必要が生じるのです。
意外な犯人の正体――馬車の御者ジェファーソン・ホープ
ホームズが捕らえたのは、ロンドンで馬車の御者として働いていたジェファーソン・ホープという男でした。御者は街を走り回り、人を乗せても不自然ではない仕事です。犯人がどのように被害者を追い、現場へ運べたのかという疑問が、職業の特性から説明されます。
ホープは復讐のため、ドレッバーに二つの錠剤から一つを選ばせました。片方には毒があり、もう一方は無害で、自分も残った一つを飲むという方法です。ドレッバーは毒を飲んで死にます。外傷の見当たらない遺体が現れた理由と、後に発見された錠剤の意味がここでつながります。
スタンガスンにも同じ方法を使おうとしましたが、抵抗されたため刃物で刺して殺したとホープは説明します。二つの事件の死因が異なることも、偶然の矛盾ではなく同一犯による行動の結果として語られます。手口が分かっても、殺害を正当化できるわけではありません。
物語の後半はユタ州へ――ルーシーと復讐の背景
『緋色の研究』は前半のロンドン事件から突然、北米の荒野へ舞台を移します。後半には、ジョン・フェリアーと養女ルーシー、そして彼女を愛するジェファーソン・ホープの過去が描かれます。探偵の調査で判明した出来事を、犯人側の長い人生から説明し直す二部構成です。
ホープとルーシーは結ばれることを望みますが、彼女は宗教共同体の指導者たちから別の結婚を強いられます。逃亡の試みは失敗し、フェリアーは殺され、ルーシーも後に亡くなります。ホープの復讐はこの喪失に由来しますが、事情が痛ましいことと殺人が許されることは別だと区別できます。
ここで注意したいのは、作品中のモルモン教徒や当時のユタ州の描写が、19世紀の偏見やセンセーショナルな伝聞を含むことです。小説に登場する暴力的な共同体像を、現実の宗教やその信者全体を説明する史実として使うべきではありません。物語の設定と歴史研究は別の資料で検討する必要があります。
結末と出典――解決した事件、裁判を受けなかった犯人
ホープはホームズに捕まり、犯行の動機と方法を語ります。ところが、裁判で詳しく審理される前に持病の動脈瘤が破裂し、拘留中に亡くなります。犯人が法廷で有罪判決を受けて事件が終わったわけではない点は、結末を説明するときに大切です。
ワトソンは事件の顛末を記録し、ホームズがどのように証拠を積み上げて結論へ達したのかが最後に語られます。有名な名探偵の第一作は、完璧な知識を誇示する話というより、観察・仮説・検証を文章で示す物語として読めます。続く作品を知るための出発点にもなるでしょう。
原典:Arthur Conan Doyle, A Study in Scarlet(1887年作品のProject Gutenberg英語本文)、Project Gutenberg書誌・刊年。関連するホームズ作品として『バスカヴィル家の犬』の原作解説、『四つの署名』の「不可能を消去する」台詞の解説も参照できます。原著者は1930年没で原作は保護期間を経過していますが、現代の翻訳・映像・挿絵の権利は別です。記事は英語原作をもとに独自執筆しました。