はじめに――物語は、何を省くかで姿が変わる
出来事を人に説明するとき、すべてを漏らさず話すことはできません。同じ一日を振り返っても、家族に話すことと友人に話すことは違うかもしれません。ミュージカル『ハミルトン』を生み出したリン=マニュエル・ミランダは2016年のペンシルベニア大学卒業式で、物語は語ることと語らないことの選択から生まれると伝えました。
本人の演説にある「Every story you choose to tell … omits others」という一節は、「語ると決めた物語は、ほかの物語を省くことになる」という趣旨です。限られた時間で何に光を当てるかという選択には、語り手の責任が伴うという問題を示しています。
出典はペンシルベニア大学の広報誌『Almanac』が公開した2016年5月16日の卒業式演説全文です。講演の題名は『The Stories We Tell』。創作の技法にとどまらず、自分自身の経験をどのように語り、理解し直すかを考えるきっかけになります。
『ハミルトン』で描かなかった歴史
ミランダは演説の冒頭、ミュージカル『ハミルトン』でフィラデルフィアの歴史を十分に描かなかったことを冗談にしました。実際には、アレクサンダー・ハミルトンの生涯に関係する出来事が同地で数多く起きています。一つの作品には、書き手が選び取った出来事だけが登場するという事実を、ユーモアで説明したのです。
彼は、同じ人物の生涯から異なる出来事を選べば、互いにほとんど重ならない複数の舞台作品が作れると述べました。実際の歴史が複数あったわけではありません。同じ出来事の集まりから、異なる観点の物語を構成できるという意味です。
この点は歴史上の人物を扱う記事にも重要です。有名な成功だけを並べると、その人の葛藤や周囲の協力が見えにくくなるかもしれません。魅力的に見せるための省略と、事実そのものを偽ることの間には明確な違いがあると考えたいところです。
『イン・ザ・ハイツ』の物語を守った選択
ミランダは若い頃に制作したミュージカル『イン・ザ・ハイツ』についても語っています。ある制作関係者から、登場人物ニーナの問題をもっと刺激的な事件に変えてはどうかと提案されたことがありました。注目を集める設定への変更が、必ずしも描きたい人物の姿に合うとは限りません。
ニーナは大学の奨学金を失い、家族へそのことを伝えられずにいました。制作側は、問題の重大さを別の形で大きくする案を示しましたが、ミランダと演出家トーマス・カイルはその変更を受け入れませんでした。その物語で本当に描きたかった経験を優先するという判断だったのです。
その後も作品づくりは続き、別の協力者たちが加わりました。ミランダは、家族で初めて大学へ進学した人々から、ニーナの歌に救われたという声を受け取ったと語っています。派手な事件へ置き換えなかったからこそ、届いた人がいたという本人の経験です。
自分について語っている物語は変えられる
演説では、ミランダが若い頃、自分の状況について思い込んでいた物語を見直した経験も紹介されています。人は誰でも、「自分はこういう人間だ」「こう生きなければならない」という説明を心の中で作っているかもしれません。自分自身についての解釈も、一度決めたら変えられないものではありません。
ただし、考え方を変えればすべての問題が消えるという話ではありません。仕事の条件や人間関係、健康には、気持ちだけで変えられない制約があります。現実の問題を認めたうえで、その出来事をどう理解し次の選択へ結びつけるかを考えるという限定的な教訓です。
物語の書き換えとは、過去にあった事実を消すことではありません。失敗した経験を「何もできなかった」とだけ説明するのか、それとも「何が難しく、何を学んだか」まで語るのか。同じ経験を振り返るときにも、次につながる問いを持つことができます。
仕事や文章で、何を語らないか考える
文章を書くときには、読者へ伝えたいことを最初に一つ決めます。背景も例外もすべて盛り込もうとすると、中心となる話が見えなくなることがあるからです。省略することは手抜きではなく、重要な情報を伝えるための編集判断になり得ます。
ただし、結論を左右する不都合な事実を隠すのは別の問題です。何を省略したかによって、読み手を誤解させる場合があります。読者が判断するために必要な根拠と留保は残し、説明の目的に関係ない細部だけを整理することが大切です。
記憶や物語についてはカズオ・イシグロが創作上の転機を語ったノーベル文学賞講演も参考になります。ケン・バーンズの歴史と解釈をめぐる演説と読み比べれば、物語の編集と史実の検証を混同しない視点が得られます。
まとめ――一つの物語がすべてを語るわけではない
ミランダの2016年卒業式演説は、優れた物語を作るには省略が必要だという説明だけではありません。自分の経験や他人の人生を一つの筋書きで決めつけず、選ばれなかった視点にも意識を向けようという呼びかけとして読めます。
同じ仕事にも多様な経験があり、一つの成果の背後には多くの人がいます。物語をつくる側は、何を中心にするかを選ぶと同時に、その選択の限界も認識したいものです。語り手の自由と、語られる人への責任を一緒に考えることが大切です。
原典はペンシルベニア大学『Almanac』の2016年卒業式演説全文です。歌詞や演説の長い文章は転載せず、短い英語表現を独自の日本語で解説しています。